桃色に色付く瞼

 次の日、拓馬は体重をかけている腕の痛みで起床した。目を開けると寝落ちる前と変わらずに春の寝顔がそこにはある。春の整えられた眉毛、長いまつ毛、ほのかに桃色に色付く瞼、朝日で輝く黒髪、ぷっくりと膨らんだ下唇、頬に残る涙が伝った跡、その全てが奇麗だと拓馬は思った。


 春の黒髪に手を伸ばしその艶やかで柔らかい肌触りを知った時、拓馬は自分が侵入してはいけない領域に土足で踏み入っている感覚に陥り、黒髪から手を離した。


(こんなに脆いのに、どうして浮気なんてできるんだろう)


 春のたった一本の髪の毛やほのかに漏れる吐息の美しさを知ったとしても、拓馬はその奥ゆかしさを自分の心の中で愛でることしかできないと気色取る。


 確かに感じた自分の性的な想望は葬るべき自分の一部なのだと拓馬は認めざるを得なかった。この欲求が過去春を傷つけた主犯的存在であり、自分も春の元彼と同じ類の男という生き物なのだと拓馬は自分を戒める。


(尊いものは、触ることすら恐れ多い)


 自分の欲求の薄汚さに勘づいたからこそ春を自分より非力な、守りたい「女」という存在だとありありと感じた。


 

 一方の春は久しぶりに元彼の夢を見ていた。どこか知らない真っ白な世界に春と元彼は二人きりで居た。


「会いに来てくれたんだね。」


 これはきっと夢なんだ、そう思いながらも春は元彼に向かって笑顔で言う。元彼は何も言わずにただ春をじっと見つめている。付き合っていた時はあんなにも好きだったその眼差しが、今の春の目には少しも魅力的には映らない。二人で醸し出す雰囲気は春の好きな落ち着く空間ではなくなっていて、もう私たちは恋人関係ではないんだと春は改めて実感させられた。


「楽しかったね。四年間も一緒に入れて幸せだったよ。」


 色々な感情のこもった切ない笑みが元彼の表情に現れ、春は下唇を噛んだ。


「もう二度と会えないと思っていた。」


 組んだ自分の手を見ながら春は言った。


 「もう一回会いたいなって思っていたの。浮気されて最低な仕打ち受けたのに、馬鹿みたい。」


 元彼は何も言わずに静かに春の言葉を聞いている。


「でも会いになんて行ったら、奥さん嫌がるでしょ?それに奥さんに鼻で笑われるのも、なんか悔しいし。」


 大好きだった元彼の手はもう春の元には届かない。涙をこらえて春は元彼を見上げた。


 「だからね私、一生懸命生きたらあの世で一回ぐらい貴方が会ってくれるって勝手に思い込んで、頑張って生きることにしたの。」


 ありったけの笑顔を浮かべて、春は元彼に向かって言った。貴方が好きだった私は、こんな風に強く逞しく生きる女でしょう?そう言いたい気持ちを春はぐっとこらえた。


 「でも少し疲れた。」


 (もう私は貴方の恋人じゃないの。貴方に好かれなくても生きていけるの。)


 元彼と付き合って自分を見失っていたことに、春はようやく気が付く。浮気された自分をもう捨てていいんだ、と自分の心に言い聞かせた。そして自分は哀れな女だと呪いをかけていた春は、心の中にいた元彼にようやく別れを告げる決心をする。


「だからね、貴方との思い出も貴方への情もなくても、これからは生きていける。」


 そんな春に元彼は優しく微笑んだ。


「さようなら。」


 春がそう言うと元彼は目の前からゆっくりと姿を消し、春の意識も段々遠のいていく。元彼が見えなくなっても、春の心は温かかった。


 



 春が目を覚ますと隣に寝転がり自分をじっと見ている拓馬と目が合った。


「おはよう」


 温もりで拓馬がずっと隣に居てくれたことを悟ると春は笑顔を浮かべる。


「おはよう」


 春の返事と笑顔を見て拓馬は安堵の表情を浮かべた。


「ずっと見ていたの?」


 春は拓馬の癖付いた前髪に手を伸ばす。


「うん。」


 癖付いた前髪は何度整えても外にはねてしまう。


「目が腫れて、不細工でしょ。」


 春は拓馬の髪の毛の癖を治すことを諦めて自分の瞼に手を置いた。一生分泣いたのではないかと思うほど涙を流し目を擦ったせいで、春は鏡を見ずとも自分の目が腫れていることが分かった。


「綺麗だよ。」


 春の愛の深さや優しさに触れた拓馬は、自然とその言葉を口にした。


「何言っているのよ。」


 春は拓馬の言葉を冗談だと捉えて鼻で笑う。


「そういう言葉は、若くて可愛くて綺麗な子に言いなさい。」


 頬杖をついて春は拓馬をぼーっと見て言った。すると拓馬は春の方へ手を伸ばし、春は拓馬に何をされるのか分からず咄嗟に目を閉じた。


 「ほら。」


 春は微かに拓馬が自分の頬に触れた感触を感じた後に目を開けた。すると拓馬は自分の人差し指を凝視している。


「綺麗だよ。」


 そう言って拓馬が差し出した人差し指には抜けた春の睫毛が乗っていた。拓馬は春の睫毛を朝日にかざし、睫毛が描く弧の美しさを堪能する。そんな拓馬の好みがいまいち分からず、春は拓馬の独特な感性を垣間見たあの小説を思い出した。


(拓馬自身も、あの主人公のように希死念慮を持っているのだろうか。)


 そんな問いを拓馬にする勇気が春にはなく、睫毛の魅力に没頭する拓馬の横顔をまじまじと見ることしかできなかった。


 朝日が入る窓を見て春はいつの間にか梅雨が明け夏が訪れていたことを知る。どこからか聞こえて来る風鈴の音で蜜豆の甘味を思い出した。


「天気もいいし、ピクニックにでも行こうか。」


 春はそう言って体を起こし拓馬を見下ろした。


「ピクニック?」


 拓馬はようやく睫毛を手放し体を起こして聞き返した。


「サンドウィッチ持って、綺麗な公園で食べるの。今日はいい天気だから気持ちいいよ。」


 春の言葉で拓馬は息を弾ませ立ち上がる。


「私、サンドウィッチ作るからお部屋の掃除お願いね。」

 

 頷いてすぐに散乱したものたちをまとめて掃除機を手に取る拓馬。よほど楽しみなのだろうと春は拓馬を愛くるしく思い、台所に向かった。

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