サンドウィッチを作って
台所に入ると、あまりにも綺麗なことに春は驚いた。長年こびりついていたコンロの焦げまでしっかりと落とされて壁にあった油の跳ねた跡もなくなっている。
(せっかく綺麗にしてくれたのに、使って汚しちゃうの勿体ないなぁ……)
春は苦笑して光沢が異常なほど現れているシンクを撫でた。リビングでは拓馬が忙しなく掃除機をかけていて、早く出かけたいと言わんばかりの様子である。ふぅっとため息をついて春は冷蔵庫から食材を取り出した。
暫くしてリビングの掃除を終わらせ拓馬が春の居る台所に訪れる。
「もう終わったの? 早いねぇ」
春は拓馬を振り返らずに手を動かしたまま言った。拓馬は春の作業が気になるようで春の手元を覗き込んだ。食パンにマヨネーズやマスタードやケチャップを塗りハム、キャベツ、スクランブルエッグ、ソーセージ、を各々乗せて食パンで覆い隠す。
ちらりと春が拓馬を見ると、拓馬は目を輝かせてそれを見ていた。出来たサンドウィッチに食器を乗せ暫く置いたのち、春は包丁でサンドウィッチを四等分した。
「わぁ」
サンドウィッチの彩り豊かな断面を見た拓馬は感嘆の声を上げた。すると拓馬の腹から低く唸るような声が聞こえて来る。拓馬は腹を摩り下唇を噛んでいた。
(出張に行く前、ちゃんと拓馬に食事を用意して行けばよかったな)
空腹感を我慢しつつもサンドウィッチに熱視線を向ける拓馬を見て、そんな後悔が春の心を渦巻く。春は出来たサンドウィッチをタッパーに詰め蓋をした。そして拓馬の口に切り落としたパンの耳を突っ込む。
「美味しい?」
自分の口にも耳を入れながら春は聞いた。
「喉乾いた」
パンの耳があまり気に入らなかったらしく、拓馬はそんな不満を口にする。自分に正直な拓馬が春には可笑しくて仕方なかった。
「道中、何か飲み物を買っていこうね」
タッパーをお弁当包みにくるんで春は言うと拓馬は頷いてリビングへと向かう。拓馬の後を追ってリビングに行く春はリビングの綺麗さにまた心を動かされるような想いをした。
「綺麗だね、ありがとう」
拓馬は細く微笑むと早く出かけようと言わんばかりに春の服を引っ張る。
「ちょっと待ってね」
春は服を着替えるためにベッドのある部屋へと向かい、急いで身支度を整えると拓馬と一緒にピクニックへと出かけた。
「いい天気だねぇ」
春と拓馬は自然豊かな公園に来ていた。途中コンビニで春は紅茶を拓馬はオレンジジュースを買い、二人は久しぶりに制約のない時を過ごしていた。大きな木の陰を見つけ二人は腰を下ろしサンドウィッチを食べた。拓馬は辺りが気になるらしく、公園に来る間キョロキョロと辺りを見渡していた。
日陰の心地よさ、サンドウィッチの美味しさに二人は癒され、特に会話もなく静かな時間を過ごしていた。やがて食事は終わり拓馬は地面に寝転がり、春はぼーっと景色を堪能する。木漏れ日や風は拓馬を包み、土の柔らかさや草の匂いに癒されて拓馬を浅い眠りに落とした。
いつの間にか眠っている拓馬の寝顔を見て、春はまた拓馬の書いた小説の内容を思い出した。
『主よ、この世の人は皆どうしてこんなに苦しい思いをしてまで生きているのでしょうか?私はただ体に灯油を塗って遊んでいただけなのです。誰かが私に火を放ち、私は燃え盛りそして重さを測れないほどの灰になりました。
過去の苦しみを栄光のように大切に持ち時折太陽にかざしてみるのです。見えるのは禁忌を犯す自分の姿。人間とは心と体、正反対の二つのベクトルの矢印の先がぶつかり合って形成されているよう。少しでも矢印の先がずれればベクトルはどんどん遠ざかっていく。
何か得体のしれないものに吸い寄せられ私のベクトルたちはどんどん離れていく。その得体のしれないものが死期であって欲しいものだ。
このベクトルたちは父のいきり立った中指の様。
私の胸でお眠りなさい、そう言って私に手を伸ばすマリア。愛していると言われると死にたくなる私が、愛していると言う言葉を一番求めていることに貴方を見ていると気が付かされる。儚いものばかりが美しいこの世は卑怯だ。』
(拓馬の目にはこの世界が、どう映っているのだろう?)
拓馬にとって生きることは、そんなにも苦しいことなんだろうか。拓馬に苦しみを与えるものは一体何?考えれば考えるほど、今日の天気には見合わない漆黒の片影が春の心に現れる。
イカルの神秘的な泣き声がどこからか聞こえてきて、拓馬は現実世界へと戻ってきた。木漏れ日が寝起きの拓馬には眩しく、視線を空から横の木々に移させる。
「鳥の鳴き声は、魂をどこかに連れて行ってくれそうなほど透き通っているよね」
身体を起こしながら拓馬は言った。
「さっきの鳥の名前、知っている?」
春の言葉に拓馬は首を横に振る。
「確か、イカルって言うんだよ」
へぇと声を漏らす拓馬。
「怒っているようには聞こえないのに。不思議だね」
「そうねぇ」
爽やかな青葡萄の香りが風に乗って二人の元に届く。そろそろ夏が本格的始まるんだな、そう思わせる強い日差しは少々痛いものだった。
「拓馬はさぁ」
地面の湿っぽさを手のひらで感じながら、春は今まで聞こうか迷っていた言葉を口にする。
「あの小説で、一体何を伝えたかったの?」
あの小説はもしかしたら自分に示したSOSなのかもしれないと思いながらも、自分には感じ取ることの出来ない底知れぬ芸術という美があるような気も春はしていた。
しかし拓馬は何も答えることが出来ない。「何を伝えたいか。」そんなことを考えて小説を書いたことなど拓馬にはなかったからだった。
「考えたことなかった。そんなこと」
あまりにも歪んだ女性的な考えが描かれるあの小説を、何を伝えたいか考えずに創り出した拓馬が、春には不可解で仕方ない。
「拓馬には、お母さんがいないの?」
頷く拓馬を見て、やはりそうなのか、と春は特別驚きはしなかった。
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