愛しい後頭部
「あるよ。」
口からその言葉を漏らした春から醸し出された陰影は、春が悲劇の嵐に煽られ身も心もズタズタに切り裂かれた、哀れな人生の旅人であることを表している。春にそんな一面があることを拓馬は当然知らなかった。
「どんな時?」
聞くことを一瞬躊躇した拓馬だったが、春の寂寞たる表情は何も言わずに見ていられるものではない。話題を変える能は拓馬にはなかった。口を開いて春は胸の痞えを何とか取ろうと息を吐いたが、出てくるのは涙だけ。
「大切なものが自分を大切に思っていないと、気が付いた時かな。」
鮮明に思い出す、初めて見せられた愛しい人の後頭部。額を地面に擦り付け懺悔の言葉と別れたい意思を伝えられたあの時、春は己が崩壊していく音を確かに聞いた。
現実はどんなに拒んでも今を変えてはくれない。地団駄を踏んで奥歯が削れるほど歯を食いしばって己を握りつぶそうと抱きしめても、命はここに存在し続ける。
「何があったの?」
春の目から流れた涙を拓馬は親指で拭った。もし他の男に同じことを問われても、きっと春は「そんなことを聞いて何になるの?」とつっけんどんな態度を取っていただろう。しかし拓馬の言葉に邪悪な下心がないことは春が一番よく分かっていた。だからこそ胸の内を拓馬に話したいと自然と涙が零れた。
「拓馬は、誰かと付き合ったことはある?」
拓馬の親指は未だ春の頬の上にある。触れるか否かの距離感で拓馬は春の心情を一生懸命読み解こうとしていた。
「ないよ。」
「そっか。」
拓馬はまだ子供なのだ、と春は微笑んだ。経験のなさが羨ましく見えるほど、春は大人だった。
「昔付き合っていた人が、浮気したの。」
拓馬は浮気という言葉に反応し春から顔を離した。
「あの小説の主人公は、浮気していたよね。」
拓馬の小説では主人公の女性は付き合っている男を信用できず、欲に溺れ浮気をしていた。それを描写した拓馬の中に少しの後悔と後ろめたさが生まれ、春はそれを瞬時に察し首を横に振る。
「大丈夫。現実と小説の世界をごっちゃ混ぜにして考えたりしないから。」
「ごめん」
拓馬の謝罪は深みを持って春の心に沈んでいく。
わずかな沈黙が二人の間に訪れた。
「元彼は、私みたいな身長が高くてしっかりしていて堂々とした女が好きって言っていたのよ。」
春は体育座りをして話し始めた。拓馬は静かにそれを聞いている。
「でもね、元彼が浮気したのは身長が小さくて華奢で弱々しいハムスターみたいな子だった。可愛くてびっくりしちゃったよ、あんな子に好きって言われたらどんな男だってコロッと騙されちゃう。」
いつもより高い声で語る春は自分を嘲笑っているようだった。
「その子が妊娠しちゃってね。元彼は私に土下座して別れてくださいって頼んだの。」
春の声が涙声に変わっていく。涙が溢れる春の瞳を見て、拓馬は聞いたことを後悔したが春の言葉も涙も止まらない。
「私は土下座してまで別れたい女なんだって。そりゃぁ命は大事よ、尊いわ。あの子みたいに守りたくなるほど可愛くて小さい赤ちゃんがこの世に誕生するの。こんな女捨ててそっちに行くに決まっているわよ!」
春の悲しみが怒りになった時、その憤りは自分に向く。なぜ自分は元彼に愛される女になれなかったのか。自分の身長も見た目も性格も全てが煩わしい。自己否定に走り、何度春は自分を脳内で殺しただろうか。
「私を失ったことで彼が不幸せになればいい。この世で一番愛してくれる私という存在を失った彼は、一生一人で苦しんで私を恋しがっていればいいって、そう思っていた。」
春の背中を摩る拓馬。熱帯びた背中から痛い程春の寂寥が伝わってくる。
「でも彼なんて言ったと思う?」
あまりにも悲しい笑顔を春は浮かべた。
「最低な俺を忘れて幸せになれって私に言った。罪悪感に押しつぶされそうに、卑怯なつぶらな瞳に涙を浮かべて。」
今でも鮮明に思い出す、愛していた元彼の顔。春は目を瞑って息を整える。油断したら、大好きだった元彼の笑顔を思い出してしまいそうで、春はそれが怖くて仕方なかった。思い出たちにさよならを告げて、静かに消えていくのを春は待つ。
体を震わせる元彼に最後に見せた自分の顔は、最高の笑顔だったなと春は数年経った今でも自信を持って言える。思い出はいかようにも美化できるが、こればっかりは脚色も工夫もされていない純白の事実だった。
「だから私言ったの、あなたが一生幸せになれるぐらい私はあなたを愛したから。だからあなたは大丈夫、幸せになれるはずよって。」
浮気された女が浮気した男の幸せを願うなんておかしな話だ、そう春は自分を鼻で笑った。
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