『歯を磨いた後に食べるクッキー』
春が出張で家を空けた間、拓馬はろくに睡眠も食事もとらず小説を書き続けた。そして春が帰って来る日の夕方、ようやく小説を書き終えた。春が帰宅早々目にしたのは小説を書き終えてそのまま寝落ちた拓馬と、山積みになった紙だ。
拓馬を見つけた瞬間、拓馬が気を失って倒れているかと思い春は焦ったが、駆け寄り寝息を立てている拓馬を見てほっと胸を撫でおろした。近くにあった毛布を拓馬にかけて春は拓馬から目を離すと、自然と拓馬が何かを書いていた紙に目が留まる。
(一体、何を書いていたのだろう。)
勝手に見るのはいけないと分かっていながらも、春は好奇心を止めることが出来なかった。春は紙に手を伸ばし、紙をまじまじと見た。
――歯を磨いた後に食べるクッキー
(拓馬が書いていたのは、小説だったのか。)
題名が記されたページをめくると、長々とした文字の羅列が春の目に飛び込んでくる。聖句が綴られ、その後に展開されていくその小説は、希死念慮に苦しみ男尊女卑に虐げられる女性が数々の出来事に翻弄され苦しみながら歩んだ人生を描いていた。あまりにも生々しい女性の心情描写は、本当に拓馬が書いたのかと疑ってしまうほど生臭いものだ。希死念慮と戦いながらマリアを信仰する主人公の心情描写は、文字が動いて春の脳内を襲い侵食するほど命を宿している。
(まるで、拓馬に希死念慮があるみたい。)
拓馬の心情を一緒に住んでいながら理解出来てないとは気が付いていた春だったが、まさか希死念慮を抱いているとは思いもしなかった。
「お帰り」
春の背後から拓馬の声が聞こえて来る。春は驚いて肩を震わせた。
「た、ただいま」
拓馬が体を起こし春の手元を見ると、春は勝手に読んでしまった罪悪感から気まずそうに苦笑いをした。
「それ、前に書いていた小説なんだ」
欠伸をしながら拓馬は自分の肩を揉んだ。春が勝手に読んだことを気にするそぶりは拓馬には全くない。
「よく小説は書いていたの?」
「多分ね。書いている時の感覚は簡単に思い出せた」
遠くをぼーっと見つめる拓馬の表情からは疲労感が伝わってくる。きっと睡眠も食事もちゃんととっていないんだろうな、と春は拓馬の様子から手に取るように想像できた。
「全部読んだ?」
拓馬はもう一度寝転がりながら春に聞いた。
「う、うん。ごめんね、勝手に読んで」
「いいよ」
眠そうに目を擦りながら拓馬はまた欠伸をする。春は拓馬の書いた小説の内容と同時に、拓馬には希死念慮があるのかもしれないとやきもきしたことを思い出した。その小説は自分の気持ちを書いたのか、そう問いたくても春の口から言葉は出ない。触れてはいけない部分かもしれないと案じる春の表情を見て、拓馬は自分の小説の評価を悟った。
「春さんはさぁ」
拓馬は寝転がったまま頬杖をついて微かに小指を動かしている。それが春には心の貧乏揺すりにも見えた。
「死にたいって思ったこと、ある?」
拓馬の口からその質問が飛んだ瞬間、心を打ち抜かれるような衝撃が春の体に走った。その質問が、自身の希死念慮の告白なのかそれとも純粋な自分への好奇心なのかは春には分からない。けれど拓馬への対応の正解を模索する前に、春の心臓は強く脈打ち春の人生を変えた過去の出来事が昨日のことのように明々と思い出される。
自分を裏切った男、その男を春は何度も忘れようとしたが、忘れようと思うほどに鮮明に触れた肌の感触まで蘇った。忘れたい、彼と一緒に作った思い出ごと全て消え去ればいい、なんなら自分という存在がこの世の全ての人の記憶から消えてしまえばいい、何度そう思ったことか春には分からない。それが所謂希死念慮なのだろう。
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