女盛り

「じゃあ急いでお風呂入って来るね」


 春は皿を片付け着替えを持ち風呂場に向かった。そして服を脱ぎ風呂に入ると、いつもより風呂場が綺麗なことに気が付いた。壁にはカビ一つなく、床からは黒ずみの跡形すらも消えている。


 (掃除、しっかりしてくれたんだな)


 気が付いていないだけできっといろいろなところを掃除して綺麗にしてくれているのだろう、と拓馬を想うと春は忘れていた何かを取り戻せそうな感覚に陥る。


 心地の良いお湯、いい匂いのするシャンプー、撫でたくなるほど光沢が美しい壁、お湯を止めてうつむいた顔を持ち上げると視界に入る曇った鏡。手を伸ばして鏡を撫でると頬を赤らめた、若く艶っぽい女が映った。


 コンタクトを外し、おまけに湯気が立っているため自分の姿がいつもより美しく演出されている。年齢的に言えば自分は女盛りなのだ、と春は肩を人差し指でなぞり唇を近づけた。水を弾く若々しい張りのある肌は、唇で触れると心地よく自分には勿体ないものであるような気がする。頬に張り付く肌からは、ほのかに甘美な匂いがした。


 春が顔を肩からゆっくりと離すと、肩に一本の黒髪が引っ付いている。それを摘まみ上げライトにかざすと光沢が髪を走り、いつの間にか消えていく。髪の毛を手放し、また鏡に目線を戻すと曇ってもう春は映っていない。


 俯くと自分の髪から水滴が滴り落ち、それがあまりにも遅く床に到達することを知って、自分を消し去りたい、そんな願望を強く胸に抱いてしまう。それは過去春に多大なる傷を負わせた出来事が生み出した、どんな強靭な魔法でも拭いきれない呪いだった。


 春はもう一度鏡に手を伸ばそうとはしない。また滴り落ちる一滴の水滴を床に落ちるまで見送り、そして風呂場を出た。


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