春の過去
拓馬が家に来て一か月経つ頃には、家事も料理も春なしでも行えるようにまで拓馬は成長していた。春はすっかり拓馬を信用し、帰宅時間も遅くなっていったが、しかし遅くても夜8時までは家に帰り仕事を家に持ち帰って来ることもあった。
リビングでパソコンに向かい仕事をこなす春を、拓馬は体育座りをして眺める。忙しなく手を動かし独り言を言ったり考え込んで天井を見上げたりする春の様子が面白く思え、拓馬は飽きることなくその場にいた。
「やっと終わった!」
そう言って春は両手を挙げて伸びをする。そしてパソコンと筆記用具を仕舞い、使わなかった紙を持ち上げ何も書いていないことを確認すると机の上に投げた。疲労困憊の表情を浮かべ春は絨毯の上に寝転がる。春の投げた紙が風に乗り、拓馬の足元に落ちてきた。
紙を手に取り純白の世界が拓馬の目に飛び込んできた瞬間、拓馬の脳裏には轟音が鳴り響き、それは確かに新しい世界の開拓される音だった。あらゆる情景が拓馬の瞳の奥に描かれ多くの人間の囁きが聞こえて来る。心に刹那的な灯が赤く色づいたその時、拓馬は自分が物書きのはしくれであることを思い出したのだった。
「春さん、これ頂戴」
拓馬は紙を春に見せながら言った。珍しく拓馬が何かを欲しがったので春はその拓馬の言葉に呆気にとられたが、同時に人間的な側面を垣間見ることが出来たのが嬉しく思い机の上にある紙を集めて拓馬に渡した。
「これで足りる?」
紙を受け取り首を横に振る拓馬。
「もっと欲しい、あとペンも欲しい。」
春は立ち上がって要らない紙を集めているケースを開けて紙を取り出した。
「このケースに紙は入っているから、足りなくなったらここからまた出して。」
紙とペンを差し出しながら春が言うと拓馬はありがとう、と言葉を発しすぐに紙に何かを書き始めた。
(絵でも描くのかな?)
拓馬が何をしたいのか分からず手元を覗き込みたい気持ちもあったが、殺伐とした拓馬の雰囲気は春を寄せ付けない。そっとしておこうと決めた春は、麦茶の入ったコップを拓馬の手の当たらない位置に置いて風呂場に向かった。
それから数日間、拓馬は食事もろくに摂らずにペンを握り続けた。拓馬の頭の中の世界は時間が経つほどに膨張していく。拓馬の様子はまさに一心不乱という感じで、春は拓馬が心配だった。拓馬が気がかりだった春だが、そんな時に限って突然の出張を会社から命じられ三日ほど家を空けなければならなくなった。
「明日から出張で名古屋に行くね」
帰って早々、春が拓馬に告げると拓馬は手を動かすのを止めて春を見上げる。
「大丈夫だよ、ご飯作っていくから」
「いつ帰って来るの?」
春の言葉の終わりを待たずに拓馬は聞いた。久しぶりに春がまじまじと見た拓馬の目の下はクマで真っ青で、大丈夫かと言葉をかけたくなるほどであった。
「三日間だから、十日に帰ってくるよ」
拓馬は遠い目をしてカレンダーを見た。
「今日は何日?」
「七日」
「分かった」
簡易的な会話を終えて拓馬はまたペンを動かし始める。ため息を一つついて春は夜ご飯の準備に取り掛かった。
(行きたくないなぁ)
その願望が社会人には許されない我儘なのは承知だったが、拓馬のことが気になって仕方ない。今までの春ならば、出張は小旅行のようで楽しいものだと思っていた。
(アグレッシブに動き回ることが、億劫になってきているのかもしれないな)
そんなところで歳を感じてしまうなんて悲しいなぁ、と春はまたため息をついた。
拓馬と生活することで心の中が変化してきていることに春は気が付いていたが、料理の味付けが濃くなっていることは盲点であった。出来上がった少し甘めの肉じゃがを一口分お皿によそって、春は拓馬の隣に座る。拓馬はちらっと春を見て、美味しいそうな匂いを漂わせている肉じゃがに視線を送った。
「これ、味見してみて?」
箸と皿を拓馬に差し出すと拓馬はそれを受け取って、だいぶうまくなった箸遣いで肉じゃがを口に運んだ。
「美味しい」
拓馬のその言葉に春は悦喜し同時にほっとした。
「もっと食べる?」
「春さんと食べる」
皿を春に返すと拓馬はすぐにまたペンを動かし始める。一緒に時間を過ごすことを求められることは、温かくなんとも形容し難いむず痒さがあるなと思いながら春は喜びを噛み締め、拓馬から皿を受け取った。
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