オアシスのようなカレー

「春さん、春さん。」


 ぐつぐつと煮えるカレーをぼぅっと眺めていた春に、拓馬は声をかけた。


「ん?」


 頭の中に落ちている断片的な記憶を拾うことに没頭していた春は、意識を外の世界へと移行した。


「カレー焦げちゃうよ」


 煮えたぎるカレーを覗き込み、拓馬はガスコンロのつまみをひねり火を消した。ふと春がコンロ脇のシンクを見ると、ご飯がよそわれたお皿が二人分用意されている。


 じっと見つめると、首を軽く傾けて下唇を突き出す拓馬が春を見つめ返した。変に真面目な性格が顔を出し、春は自分と拓馬の関係性を問いたくなる。


(親子でもなく、友人でもなく、恋人でもないこの男は、自分をどんな人間だと思っているのだろう)


 言いたいことは山ほどあったが、春は何も言わずに拓馬に微笑みを見せ、カレーをよそい拓馬に渡した。身寄りがなく家に来ている若い男に勝手に愛着を持ち面倒くさい女心のあれこれを語れば、二人のまだ形になっていない関係が乱れ消滅してしまう気がしていたのだ。


 拓馬の作ったカレーを、二人はリビングの同じテーブルで向かい合って食べ始める。想定していた味や食感とはまるで違ったカレーが二人の口内に運ばれた。人参やジャガイモは固く、ルーはいつまでも舌に味が残り続けるほど濃い。しかし春にはそのカレーが、広大な砂漠を彷徨い歩きようやく見つけたオアシスの水の如く美味しく感じた。


 一方の拓馬は昨日食べたカレーよりも美味しくないと顔を顰めた。不快感からスプーンを机の上に置き春を見上げると、春はカレーを口に運び顔をほころばせて優しい表情を浮かべていた。そんな春が拓馬は不思議で仕方なく、春を凝視した。


「食べないの?」


 その春の問いに拓馬は俯いた。


「初めて作ったのにこんなに上手に出来たなんて、料理上手だね。」


 自分の姿を見ただけでカレーを作ることが出来た拓馬を純粋にすごいと思った春の口から、そんな誉め言葉が飛び出した。思い通りのカレーが作れず意気消沈していた拓馬はその言葉に心を躍らせ、顔を上げる。


「美味しい?」


「美味しいよ。」


 春の言葉に喜んだ拓馬は、またスプーンを手に取りカレーを口に運び始めた。しかしやはり美味しいとは思えず、すぐにスプーンを机の上に戻してしまう。


「口に合わない?」


 拓馬は頷いて自分の作ったカレーをじっと見つめた。きっと拓馬は空腹だろう、と春は立ち上がり台所に向かう。そして冷蔵庫に入っている焼きそばを取り出し電子レンジで数秒温めリビングに戻った。


「これ、食べて。」


 拓馬のカレーの乗った皿を机の端によけて、焼きそばが乗った皿を拓馬の前に置いた。焼きそばの香ばしいソースの香りが拓馬の鼻腔を通り、拓馬の口内は涎で溢れている。


「いただきます」


 そう言って拓馬はスプーンを持った。


「あ」


 拓馬の手元を見た春は箸を持ってこなかったことを思い出し、台所へと向かう。春の感嘆の声で拓馬は動きを止め、春を見た。


「ごめん、これで食べて」


 颯爽と立ち上がり台所から箸を持ってきた春は拓馬にそれを差し出す。箸を受け取った拓馬は箸をまじまじと見た後に、箸を左手で握り掬い上げるようにして焼きそばを口に運んだ。


「箸の持ち方、忘れちゃった?」


 顔を皿に近づけ焼きそばを食べている拓馬は、上目遣いで春を見た。そして自分の左手にある箸に目線を移し、箸を握る拳を動かす。その拓馬の様子は箸の持ち方を忘れたのではなく、知らないのだということを物語っていた。


 春はもう一度立ち上がり今度は台所からフォークを持って帰って来た。


「こっち使って。箸の持ち方は今度練習しようね。」


 箸を机の上に置いてフォークを受け取り、拓馬は焼きそばを食べ始める。食べやすいからか美味しいからか、拓馬はほくほく顔を浮かべた。


(この歳で箸を持てないなんて、一体拓馬はどんな育ちをしてきたのだろう。)


 そんな疑問を抱きながらも春はカレーを食べ続けた。きっと成長過程を阻害した何かが拓馬にあると、初めて会った時から思ってはいた。その姿形がはっきりと見えてきたような気がして、春は切なさに胸が締め付けられる思いをした。


 そんな春の心情に少しも気が付かずに、拓馬は焼きそばの美味しさに感動している。目を輝かせて焼きそばを食べる拓馬を見て自分の切ない思いを馬鹿らしく感じ、春はフフフと笑みを零した。


(こんなに心が揺さぶられる食事は初めてだけど、悪くないなぁ)


懸命に顎を動かし鼻息を荒くして焼きそばを食べる拓馬を見て春は思う。


 その日の夜、春は布団の中で矯正箸をスマホで検索し購入ボタンをタップした。

 それから春は休みの日になると拓馬に家事を教え料理の方法も教えた。春が教えたことを拓馬は難なく理解し、拓馬の物覚えが良いことを春は知った。記憶喪失であることからきっと教えたことはすぐに忘れてしまうのだろうな、と思っていた春の読みは外れ、拓馬の記憶力は非常に長けていて何故春に出会う前のことはすっかり忘れてしまっていたのか、春は不思議で仕方ない。

 

 一緒に生活することで二人の絆は育まれ、日を追うごとに深まっていく。そればかりかお互いを大事な存在と認め合うことが自然の流れで行われ、それは二人の相性が良くなければ決して起こらないことであった。

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