愛情は、一体どこから

 一方の拓馬は、春に頭を撫でられ脳内は歓喜の嵐だった。滅多にない興奮によって呆然としたせいで、行ってきますと言って去って行った春が目の前から居なくなってから行ってらっしゃいと返事をした。何故か分からないが嬉しくて堪らない、もっとこの感覚を味わいたいと、何度も春に撫でられた時の感覚を思い出す。


 食事を終えて食器を洗いに台所に向かう拓馬は、春の残していった食器を見てハッとした。


 いいことをすれば撫でてもらえるのか、と思った拓馬は昨日から今日までの出来事を思い出し、どうしたら春に喜んでもらえるのか考えた。台所で料理をする春、穏やかな顔をして口に食べ物を運ぶ春、よく噛んで味わいこちらを見て微笑む春、少し色付いた顔で自分の頭を撫でた春、観察しているからこそ拓馬はそれらを鮮明に思い出すことが出来る。

 

 記憶を辿り、最終的に春が作った焼きそばに辿り着いた。冷蔵庫を開けて焼きそばのよそわれた皿を拓馬は取り出す。


 何をしたら春が喜ぶのか、人を喜ばせた経験がない拓馬には分からない。じっと焼きそばを眺めた後、焼きそばを冷蔵庫の中に戻すと食材らしからぬ無機質な箱が入っているのが見えた。それを手に取ると箱には昨日春が作ったカレーが描かれていて、拓馬の脳内ではカレーを手際よく作る春の姿が思い起こされた。箱からは昨日のカレーよりもスパイシーな香りがして、拓馬の食欲を掻き立てる。


(カレーを、作ろう。)


 拓馬は冷蔵庫から思い出せるだけのカレーの材料を探し出し、調理スペースに置いた。


(野菜を洗い、切って鍋で炒める、そして水を入れて……)


 カレーを作る春の背中を思い浮かべながら、拓馬はカレーを作り始める。途中過熱した鍋のふちが腕に当たり偶に違和感を覚えるほどの軽い火傷をしたが、それ以外は順調にカレーを作ることが出来た。


 拓馬はリビングに敷かれた絨毯の上に座っていたが心落ち着かず、台所に行き鍋に入ったお手製のカレーの匂いを嗅いだ。それでも落ち着かず玄関まで行って春が帰ってきているか確認しては、少しの物音にも反応する始末で、とにかく春が帰るのを今か今かと待ち侘びていた。


 春が帰宅したのは16時ごろで、普段仕事に熱中し残業まで請け負う春には珍しい時間帯の帰宅である。玄関の鍵を開けて家に入るや否やすぐさまカレーの匂いを察知した春は、その匂いが自分の想定の範囲を超える不幸の要因になりうる出来事の織りなす刺激であると感じ取った。


 春はすぐに拓馬のいるリビングへと向かうと、春が帰って来たことに気が付いて駆け寄ってきた拓馬とリビングの入り口で合流した。すると春が口を開く前に拓馬は春の腕を引っ張り、春を台所に連れていく。拓馬の脳内は春に褒められまた頭を撫でられたいという願望でいっぱいであった。一方の春は拓馬の気持ちがくみ取れず、拓馬の行動が謎に包まれ抵抗することすら忘れてしまった。


 拓馬は自分の作ったカレーが入った鍋を春の前に差し出した。


「これ、拓馬が作ったの?」


 春の問いに拓馬は頷いて、そして春の方へ頭を傾ける。


(なんでカレーを勝手に作ったのだろう、そんなにお腹が空いていたのだろうか)


 春は拓馬の行動に首を傾げ、拓馬がどんな言葉をかけられたいのか自分に何を求めているのか分からず、次に発する言葉に困った。そんな春の様子が予想外で、喜んでいない春に拓馬はショックを受ける。春に近づけていた頭を持ち上げて、拓馬はしょぼくれて春をじっと見つめた。


「なんで、カレー作ったの?」


 春は優しく拓馬に問うた。しかし拓馬は春から目を逸らして何も答えない。


「危ないから、私がいないところでは料理しちゃだめだよ?」


 春の言葉で一層悄気る拓馬に対し、なぜカレーを作ったのだろうかと更に疑義を抱いた。冷蔵庫の中を見ると春が作っておいた焼きそばはそのままで、空腹を満たすためにカレーを作ったようではないらしい。


「カレー、そんなに美味しい?」


 拓馬の様子を伺いながら春は聞くが、的外れな回答だったらしく拓馬の機嫌は良くならない。下唇を噛んでうら悲しげな表情を浮かべる拓馬に、小言を言ってしまったことを春は後悔した。美味しそうにカレーを食べた自分のために作ってくれたのかもしれない、と思うと春は考える間もなくいじらしさのあまり拓馬の頭に手を伸ばした。


 触れた瞬間、春はまた拓馬を勝手に子ども扱いしてしまったと我に返り、手の動きを止めて拓馬の顔を見た。しかし嫌がっているかもしれないと案じたのも束の間で、春の心配を吹っ飛ばすほど拓馬は喜々たる笑顔を浮かべていた。


 その笑顔を見て、拓馬がカレーを作ったのは自分に褒められるためだったのだと春は確信した。その事実に気が付いてしまった春は、自分の母性を抑えることもそんな自分の心中を有耶無耶なものにすることも不可能だった。

 

 拓馬が可愛くて仕方なく、春は拓馬を衝動的に抱きしめたくなった。しかし見た目が成人男性である拓馬に手を伸ばすようなことは出来ず、春の手は拓馬の頭の上から離れない。


「ありがとう。でもね、料理は危ないから一人でいる時はしちゃだめだよ。怪我しちゃうし、火事になっちゃうかもしれないから。お約束ね、分かった?」


 春は拓馬の顔を覗き込んでそう拓馬に語ると、拓馬は眉間にしわを寄せながらも頷いた。


「怪我してない?」


 春は拓馬の手を取って指に切り傷がないか隈なく見た。そして傷がないことが分かるとホッとして指から目を離すと、拓馬の腕に赤い痕があるのが見えた。春がその痕に触れると拓馬の身体に刺激が走り、拓馬は肩を震わせ下唇を噛んだ。


「ここ火傷したね?」


 拓馬は気まずそうにゆっくりと頷いた。


「冷やしてない?」


 もう一度頷く拓馬の腕を引いて春は拓馬を洗い場まで連れていく。そして拓馬の腕を蛇口近くまで持っていき水を流した。


「火傷したらすぐに冷やすこと。分かった?」


 春は拓馬の手首を掴んだまま拓馬に火傷したときの対処方法を説明する。真剣に聞いているのかどうかも分からない拓馬の横顔は、初めて見たときから変わらず綺麗だった。


 数分間冷やし春は水を止めた。春がチョンっと拓馬の火傷痕に触れたが拓馬は特に反応を示さないその様子に安心し、春はタオルに保冷剤を包んで拓馬に渡した。


「これを火傷したところに当てて。」


 拓馬はそれを受け取り火傷痕に当てた。


「料理しちゃいけないのなら」


 拓馬はぼそりと呟いた。


「え?」


 拓馬の小さな声に耳を傾ける春。拓馬は顔を上げて春を見つめる。


「ならどうしたら春さんを喜ばせられるの?」


 春の顔に熱が集まり、頬がかぁっと紅潮する。過去に交際した男たちは、皆春の優しさや正義感や義理堅い性格に甘んじて、春のために行動なんてしない男ばかりであった。

 

 春の中に拓馬への恋愛感情はなかったが、今まで出会ったことのない自分に尽くそうとしてくれる男の存在の出現に、ある種のトキメキを抱いたのは確かであった。この感情を一言で表すのなら「愛おしむ」という単語に尽きる。


「家事とか、かな。」


「かじ?」


 拓馬は小首を傾げた。


「うん、お掃除とか。」


 拓馬は辺りをキョロキョロと見て、そして台所の油が跳ねて汚れた壁を指さした。


「あそこら辺を拭いたり?」


「そうそう。」


「分かった。」


 拓馬は手に持っている保冷剤を巻いたタオルで壁を拭こうとした。


「あ、今日はいいよ。今度の休みにお掃除の仕方教えるから。」


 拓馬の腕を掴んで春は拓馬を制した。そして拓馬の手からタオルと保冷剤を奪い、また保冷剤をタオルに包んだ。


「夜ご飯にしよう。拓馬が作ってくれたカレー、食べよう?」

 

 拓馬は保冷材の入ったタオルを春から受け取り頷いた。他人に作ってもらった食事をいただくなんていつ振りだろうか、と春は頬をほころばせた。同時に料理上手だと自画自賛しながら、自分に一度も手料理を振舞ってくれなかった元彼の存在を春は思い出す。


(最大の愛情とは自分の時間を相手に捧げることかもしれないな)


 最も私が与え求めたのはそれであったが一度も見返りがなかったな、と春が過去の恋愛を振り返ってしまうのは悪い癖であり、幸せだったはずの過去を思い出す憩いの時間でもあった。傍から見れば何故そんな男を想うのだと言われてしまうかもしれないが、しかし春にとっては元彼との過去を思い出す時だけが幸福に包まれる瞬間なのだ。


 その過去が他人から見ていくら悲惨で聞くに堪えないものだったとしても、春にとってはかけがえのない美しき思い出だ。それは感覚の麻痺した哀れで悲しい干物女が、男に捨てられた成れの果て。自暴自棄になり自分を蔑み情けなく思っても、今も心に居座る元彼と一緒に過ごした時間を思い返してしまう。


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