親交
次の日、春はアラームの甲高い音と微かな首の痛みを感じながら起床した。たまに生じる、春の頭の下敷きになっているはずの枕を無意識に抱きしめてしまう癖が出てしまい、首を寝違えてしまったらしかった。
スマホのアラーム機能をオフにして、首を摩りながら春はベッドから抜け出した。もしかして、昨日の出来事は全部夢だったのではないか、と思いリビングを覗くがそこには丸まって眠っている拓馬の姿があった。
春が拓馬を覗き込むと、拓馬は微妙に口を開けて規則正しく鼻から息を吸い口から息を吐きだしている。ツンと尖った鼻先は指でどこまでも追いかけたくなるほど美しく、目を瞑っているのにも関わらず綺麗な弧を描く睫毛は花の産毛の如く滑らかそうであった。
母性というものは、一体どこから来るものなのだろうか、と自分の抱く感情の煩わしさを身に染みて感じながら春は思った。
拓馬から離れ春は台所へ向かう。冷蔵庫を覗き自分の弁当のおかずと拓馬の昼食を瞬時に決めて料理に取り掛かる姿は、慣れたもので俊敏であった。
台所からの物音で拓馬は起床した。のっそりと起き上がり、音のする台所へ春を求めて拓馬は歩き出す。
「おはよう」
目を擦りながら眠そうな顔で近づいて来る拓馬を振り返り、春は挨拶をした。
「トイレは左だよ」
春は顎でトイレがある場所を示したのち、また作業する手を動かし始める。拓馬は左に方向転換しトイレに入っていった。
(そういえば、トイレの仕方は知っているのか?)
春ははたと思い、また手を止めてトイレのドアを凝視した。拓馬は言われるままにトイレに入り暫くぼうっとしていたが、トイレの便座や形をみて尿意を催し、数分後拓馬は無事に尿意から脱することが出来た。
トイレの水が流れる音がして春はほっとし、また料理に取り掛かる。冷蔵庫から取り出した材料の多さに、春は自分の懐に冬の訪れを予兆した。
(食費が、今までの二倍だなぁ)
自分から家に来ることを提案した以上拓馬を放り出そうとは思わないが、ケチ臭い春の性格が若干の後悔を春の肩に居座らせる。
トイレから出てきた拓馬は台所で忙しなく動く春をぼーっと見ていた。その視線に春は気が付いていたが、見ることが拓馬にとって一番の学習方法なのだと気が付いていた春は、何も言わずにただ料理を続ける。
「これ、リビングに運んで」
春は二膳の茶碗にご飯をよそい拓馬に渡した。まだ少し眠そうな拓馬は黙って受け取りリビングに向かう。味噌汁はこぼすかもしれないから私が運ぼう、と味噌汁をよそい春がお椀を持ち上げると拓馬は黙って手を差し出していた。
「これはこぼすかもしれないから、私が運ぶよ」
そう言って春は拓馬を通り過ぎリビングに向かった。リビングの机に置かれた茶碗の隣に味噌汁の入ったお椀を置いて台所の方へ振り返ると、拓馬はきょとんと不思議そうな顔で春を見ている。拓馬がそんな表情を浮かべている理由が春には分からず、けれど時間の猶予もないため春は台所に戻り作っておいた焼きそばを皿に分けラップをかけた。
「これ、拓馬のお昼ご飯ね。冷蔵庫入れておくから食べて。」
春は冷蔵庫に焼きそばを入れて、そして納豆を二パック取り出した。箸を戸棚から取りリビングに戻りながら時計を見ると予想よりも時間がなく、春は急いで座布団に座りいただきますと挨拶をして食事を始めた。
「拓馬も食べなよ」
味噌汁をすすりながら春が拓馬に声をかけると拓馬はゆっくりと座り、か細い声でいただきますと言って食事を始めた。拓馬はゆっくりと食事をしながらじっと春を見つめ、春はその視線を気にせず食事を進める。春が納豆パックを開けた瞬間に充満した匂いに拓馬は眉間にしわを寄せ、春の手元にある納豆を怪訝な顔をして凝視した。醤油を3滴垂らし箸で納豆をかき混ぜる春は、拓馬の反応をニヤリニヤリと楽しんでいる。
素知らぬ顔でご飯に納豆をかける春。拓馬は春を真似て納豆パックを開けて醤油を多めに垂らした。
「そんなに醤油入れたらしょっぱいよ。」
春も忠告も聞かず、拓馬はそのまま納豆をかき混ぜる。力加減が分からずパックに穴をあけていたが気にも留めずそのままご飯に納豆をかけた。まぁいいか、と春は拓馬を止めることをやめて自分の食事を進め、拓馬は納豆のかかったご飯を口に運ぶが、案の定納豆のしょっぱさで咽ていた。
喉の痞えを取ろうと咳をする拓馬を見て、フフフと春は笑った。けれど拓馬は納豆が気に入ったようで箸を止めることはなく、頬にご飯粒をくっつけたまま食事をしている。食欲旺盛で体も健康そうだな、と春は安心しつつ家を出なければいけない時刻が刻一刻と迫っていることに気が付き、食事を胃に掻きこんだ。
「ごちそうさまでした」
春は食べ終えた食器を台所の洗い場に置いて洗面所で歯を磨き、そして簡単に化粧等の身支度を整えて仕事用の服に着替えた。リビングに戻ると拓馬はまだ食事をしている。
「拓馬、私これから仕事行くから」
春はリビングに置いてある鏡を見て口紅を塗りながら言った。頷く拓馬を見て、春は自分の食器をまだ洗っていないことを思い出し、けれどもう家を出なければいけない時刻だった。
「ごめん拓馬、私の食器洗ってもらってもいい?」
せかせかと上着を着ながら春が言うと、拓馬はゆっくりと頷いた。
「いい子! ありがとう」
春はとっさに拓馬の頭に手を伸ばし拓馬の頭をわしゃわしゃと撫で、そして拓馬の反応を見る余裕もなく、行ってきますと声を張り上げて家を飛び出した。
急いで最寄り駅まで向かう途中、春は無意識に子ども扱いし拓馬の頭を撫でたことを思い出した。頭を撫でられるなんて不愉快じゃなかったかな、と春は心配になり引き返して謝ろうかとも思ったが時間的に厳しいため断念した。
(家に帰って気にしている様ならば、謝ろう)
駅の改札を前にして、春はもうすでに帰ってからのことを考えていた。
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