愛情は内発的に。
風呂から上がり自分のベッドに入った春は、拓馬を探している人がいないかどうかネットやSNSで調べた。けれど該当する投稿は見つけることが出来ず、ますます先ほどの自分の勝手な拓馬の過去の想像が当たっているのではないかと思い始めた。
一方の拓馬は春から告げられた約束通りベッドのある部屋には一歩も入らず、リビングに布団を敷いて寝ていた。疲れていた拓馬は布団に入るとすぐに夢の世界へと落ちていく。
拓馬は夢の中でひたすら何かから逃げていた。自分より背丈の高い草を必死に掻き分けて、途中何度もぬかるんだ地面に足がとられた。息を切らし目がくらんでも、それでも得体のしれない脅威から逃げていた。それでも自分の歩幅があまりにも小さく、少しも前には進まない。
懸命に足を動かしている最中、突然シャツが背後から引っ張られ、拓馬の首は絞まり拓馬の身体が宙に浮いた。男の野太い声は大地の呻きかと思うほど拓馬の脳内に響き渡り、拓馬の身体の芯から震わせ拓馬に恐怖を与えた。
そんな夢を見ている拓馬はうめき声を微かに漏らしていて、春はその声で目が覚めた。心配になった春はベッドから抜け出して拓馬が寝ているリビングへと行った。拓馬の寝顔を覗くと寝汗かいて、こちらも首を絞められている感覚に陥るほどの圧迫感が拓馬の表情から伝わってくる。
「拓馬! 拓馬!」
急いで拓馬を夢の世界からこちらの世界に呼び戻そうと、春は拓馬の名前を呼び拓馬の身体を揺すった。ハッと目覚めた拓馬の見開かれた潤んだ瞳が、微かに揺れる春を映し出す。開かれた瞳孔が縮んでいく様は、拓馬が夢の世界から遠ざかったことを表しているかのようだった。
「大丈夫?」
拓馬は上半身だけ体を起こし、自分の手が小刻みに震えていることに気が付いた。横隔膜は未だに常軌を逸する動きをしていて、けれどその夢の中の恐怖すら得体のしれない影に変わっていく。
拓馬は自分が何を恐れ逃げ回っていたのか、自分は一体何をしていたのか思い出せない。ただ真っ黒な何かが自分を覆い、体を潰すほどの恐怖となり存在していることだけは確かだ、と拓馬は身に染みて感じていた。
春は拓馬にコップ一杯の麦茶を差し出した。拓馬は黙ってそれを受け取り一気に飲み干した。
「怖い夢でも見たの?」
拓馬の隣に春が腰かけて聞くと拓馬は頷き、まだ微かに震える手を握りしめている。力強く握っても震えが止まらない拓馬の様子を見て、よほど怖い思いをしたのだろうと春は拓馬を不憫に思った。
「しばらくここに居るから、安心しておやすみ」
春は拓馬からコップを受け取り、肩に手を置いて微笑んだ。春の温もりに安堵して拓馬は布団に入らずそのまま夢の世界へと落ちていく。拓馬の上半身は春の方へ倒れた。
「えぇ……」
拓馬の眠りにつく速さに驚いて、春は自分の方へ倒れてくる拓馬の身体を掴み感嘆の声を漏らす。薄暗い灯りの中で見える拓馬の長いまつ毛や綺麗な鼻筋に一瞬見惚れ、首を振って我を取り戻すと重い拓馬の身体を何とか布団の中に入れた。
ふぅっとため息をついて改めて拓馬の寝顔を見た春は、拓馬の頬に人差し指をくっつけた。規則正しく寝息を立てて眠る拓馬の顔は、子供のような頬の柔らかさも鼻の小ささもないのに幼気で、自分がいなければ生きていけないようなか弱さがあった。
決して触り心地は良くない拓馬の頬、けれど手放したくはなかった。初めて会ったばかりの男に、こんな感情が湧くなんてあり得ない。そう思いながらも春は自分の母性や愛情が内側から溢れかえっていることに気が付いていた。
暫くしてピチャ、ピチャっと規則正しく水滴が落ちている音が春の耳に届いた。
(もしかして)
と思い台所に行くと案の定水道の蛇口がしっかりと締まっていなかった。いつもなら春はこんな粗相はしない。拓馬に皿洗いの仕方を教え、そこまで気が回っていなかったのだ、とため息をつきながら春が蛇口を絞めたその瞬間、キュッという音が家に響き渡ったような気がした。
(誰かが原因で「いつもの自分」が崩される感覚は久しぶりだな)
電気を消してガラス窓から月明りを感じる台所で春はそんなことを思った。春はそれを不愉快だとは思わなかったが、幸福だとも思えなかった。ただ他人に左右される自分がいることが不甲斐なく、情けなかった。だから私は一人で生きたいのだ、もう傷つきたくないのだとこの暗闇に拓馬への情を全て葬り去ろうとした。
他人に無関心で冷静な自分に、恋をして身も心も尽くそうとする姿があることを過去に知った春は、今の自分とその時の自分が重なる。
(私はひと時の良き拓馬の保護者であれば十分だ)
春は手に持っていたグラスを月明りの元、手探りで洗う。泡が立ったスポンジでグラスを擦り、春は手を滑らせ危うくグラスをシンクに落としそうになったが、すんでのところでグラスをキャッチし、事なきを得た。見た目が綺麗なグラスをわざわざ洗い、そんな行いが落として割る原因となるなんて愚行極まりないのではないか、春は自分を嘲笑った。
(私が拓馬にしていることも、同じじゃないか?)
透明なグラスを見て、春は拓馬のきょとんとしている顔を思い出した。
(私の善意もおせっかいも何もかもヌメヌメした泡のようなもの。拓馬にとっては水に流せば跡形もなく消え去っていくものなんだ。)
掛けた情は水に流せ、ついでに抱いた情も水に流せ、春は泡のきれたグラスを拭いて棚に戻した。
(そうすれば傷つかずに、何も失わずに済む。)
大事な何かを回避し続ける人生で、一体何を手に入れることが出来るだろうか。そんな虚しさは底知れぬほどで、春の心に溢れんばかりの自分への軽蔑は自己否定へと繋がっていく。
拓馬が静かに眠っていることを確認し春は布団に入る。スマホを見るともう日付が変わっていた。明日は拓馬の分の昼食も準備しなければいけないな、といつもより30分早くアラームをセットし春は眠りについた。
静かな家の中、時折拓馬と春の呼吸の調子が合わさるが、けれどそれは一瞬の出来事だ。彼らは無限に広がる宇宙のひとかけらの星屑のようで、こちらから見れば近しい距離にあるが、決してそんなことはないのであった。
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