美味しいカレー
一人暮らしが長く節約のためにほぼ毎日自炊をする春にとって、料理は手慣れたものだった。一方拓馬は料理という目新しいものを前にして、好奇心を高めた。そして料理を習得するために、春のこなす工程を一つも見落とそうとはしない。
拓馬の学習能力が高い故に、拓馬は春の発した言葉や行動を見聞きすることで、幼い頃から徐々に習得するはずの人間としての常識を拓馬は短期間で次々と会得していくことが出来た。しかし自分の好奇心を抑えることが出来ずすぐに行動に移してしまう拓馬を、春は心配に思っていた。
熱した鍋に拓馬が触れようと手を伸ばした瞬間、
「だめ!」
春は拓馬を制するために声を上げた。拓馬は体を震わせ動きを停止させる。大きな声は拓馬に恐怖感を異常なほど与え、それは拓馬もまだ思い出せない潜在意識の奥深くまで蔓延る、過去の出来事が原因だった。
春の視線から逃げるように春から目を逸らし、自分の存在を消そうとするかのように息を潜め身を縮こませる拓馬の様子は異様で、春は料理する手を止めて拓馬に目線を合わせるようかがんだ。
「ごめんね、大きい声出して。でもね、鍋は火にかけると熱くて触ると火傷しちゃうから。触っちゃだめだよ」
春はなるべく優しい声と表情を作って拓馬に言った。春の顔色を窺う拓馬に春は微笑みを見せる。すると段々と拓馬の体の緊張はほぐれ、安堵の表情が現れ始めた。
一体拓馬は誰にどんな言葉をかけられ恐怖を知ったのだろう、春はいくら考えても正解は分からない拓馬の過去を想像してしまった。哀れに思ってしまうほど拓馬の過去が暗いものだと察することは、先ほどの様子を見ていれば容易い。
春が声を張り上げたときの心情と過去拓馬を恐怖させた人物の心情は、きっと似て非なるものであるはずだ。けれど拓馬はどちらも同じようなショックとして感じ取ってしまう。
拓馬をそんな状態になるよう仕向けた人物に、春は憤りすら覚えた。
拓馬の呼吸が落ち着き春の目を見られるほどになった時、春は拓馬の背中に触れた。
「大丈夫?」
春の問いに拓馬は黙って頷いた。安堵した春は次の瞬間、鍋を火にかけたままであることを思い出し、拓馬から離れ急いで鍋を覗き込んだ。幸い炒めていた肉はさほど焦げておらず、体感時間よりも時が流れていないことを春は知った。
ほっと胸を撫でおろし春は菜箸で肉を持ち上げ、火を通ったことを確認すると野菜を鍋に投入した。春の様子を静かに見ている拓馬は、もう鍋に触れてこようとはしない。春は二人分のスプーンを戸棚から出した。
「これ、リビングの机の上に置いてきてくれる?」
春がそう言ってスプーンを拓馬に差し出すと、拓馬は頷いてスプーンを受け取りリビングへと向かう。素直に自分の言うことを聞く拓馬を、春は可愛いと思った。しかしこの感情は、成人男性であり今日であったばかりの拓馬に対して抱くべきものではない、と春は自分に言い聞かせた。
スプーンを置いて戻ってきた拓馬に春がありがとうと一言言うと、拓馬は自分の心が梔子色に染まる心地がした。拓馬にとってそれは得体のしれない感情だったが、喉の奥が熱くなり微笑まずにはいられなかった。そんな拓馬の心情は、料理をしていて拓馬を見ていない春には伝わらない。
しばらくして部屋にはカレーのスパイシーで芳醇な香りが漂い始める。おいしそうな匂いで拓馬は自分の腹が減っていることに気が付き、腹を摩った。火を止めて春は炊飯ジャーを開けた。そして戸棚から食器を取り出す。
「ご飯これぐらい食べられる?」
春が食器にご飯をよそい拓馬に問うと、拓馬は自分の胃袋の大きさなんて分からないがとりあえず頷いた。
春は二人分のカレーをよそい拓馬の分のカレーを拓馬に渡した。拓馬は受け取ってカレーに顔を近づけて匂いを嗅ぐ。
「カレー嫌い?」
拓馬はカレーを食べたことがないにも関わらず、首を横に数回振った。カレーが自分の口に合うものだと察することが出来るほど、カレーの匂いは拓馬の食欲を誘う。
「なら良かった」
春は拓馬に微笑んだのち、冷蔵庫からビールを二本取り出し自分の分のカレーを持ってリビングに向かった。拓馬も春の後を追う。
春と拓馬は向かい合って座った。春は拓馬の前にビールを一本置いて自分のビールを開けた。拓馬がじっと見つめているのも気にせず、春は喉を鳴らし勢いよくビールを飲んだ。春の豪快な飲みっぷりに拓馬は驚いている。
「なによ」
拓馬の視線に気が付いて春はビールの缶を机に置き、言葉を発した。拓馬はまた首を横に数回振る。
「ビールを飲んでいる時が唯一の至福の時なの」
春が勧めても拓馬はビールに手を付けない。確かに年齢も分からない男にお酒を勧めるのはよくないか、と拓馬の分のビールを春は奪った。
春はスプーンを持ち顔の前で手を重ね、いただきます、と言った。カレーに手を付ける前に拓馬をちらりと見ると、その視線を感じ取り拓馬もスプーンを持ち顔の前で手を重ねた。
「食事の前はいただきますって言うんだよ」
春はもう一度いただきます、と呟いた。拓馬もか細い声でいただきます、と言った。春が拓馬を見つめる眼差しは、母が子の成長を願うようなものに近しい。春は右手にスプーンを持ちカレーを食べ始めた。拓馬は春の見様見真似で左手にスプーンを持ち、カレーを食べ始める。拓馬があまりにも春を見るので、春はその視線に少しばかり緊張していた。
「美味しい?」
春の問いに拓馬は頷いた。
「なら良かった」
広く愛されるカレーは偉大だな、拓馬の食べっぷりを見て春はそう思った。いつの間にか拓馬は春を見ることも忘れ、カレーを食べることに夢中になっている。
誰かに料理を振舞うなんていつ振りだろう? 春はビールを片手にそんな思考に耽っていると、拓馬の動きが止まった。皿を見ると見事に完食していた。
「おなかいっぱいになった?」
もう少し食べたい、そう言いたげに腹を摩る拓馬の素直さに春は吹き出した。
「もっと食べたいなら、自分で好きなくらいよそっておいで」
春が笑いながら言うと拓馬は何故笑われているのか不思議に思い、首を傾げながら立ち上がり台所に向かった。
戻ってきた拓馬の皿には先ほどよりも多い山盛りのカレーライスが乗っていた。そんなに食べられるのかと春は問おうとしたが、食べ始めた拓馬の勢いの良さでその言葉は腹の内に引っ込んだ。
「カレーはよく昔から食べていたの?」
もう既に完食していた春はビールの缶を片手に拓馬に問うた。拓馬はちらっと春を一瞬見たが、何も答えずにまたカレーを食べ始める。
「覚えてない?」
拓馬は咀嚼しカレーを胃に流し込む。
「食べたことないです」
それは初めてはっきりと拓馬が春に言葉を返した瞬間だった。低く張りのある声を聴いて、春は拓馬が男であることを今更ながら実感した。それまで拓馬を幼い子供のように感じていたことに羞恥を覚え、春は拓馬から一瞬目を逸らした。
「本当に? 一回も食べたことないの?」
一般的な家庭ではカレーは日常茶飯事食べる料理であり、義務教育課程でも給食のメニューとしてカレーは王道だ。忘れているだけではないか、そう言おうとも思ったが味や見た目にインパクトがあるカレーを目の前にして過去に食した記憶を思い出せないなんてことがあり得るだろうか、そう春は思った。
先ほどから拓馬を観察していると、確かに記憶は失われているようだがお風呂のような無意識的に毎日行うようなものは、説明すれば難なくこなしている。思い出せないだけで体が覚えている、そんな感じなのであろう。
春の常識の中ではお風呂もカレーも人間生活を送る中で自分の身の回りを取り囲む身近な存在で、その存在は無意識的に脳内に刷り込まれているはずだ。しかしカレーの匂いや味を感じ今日初めて知ったと口にする拓馬にとってカレーという存在は、本当に大人になって初めて食し味を知ったものなのであろう。
大きく口を開けてカレーを頬張る拓馬。低い声やがたいが良い体格、それらとは相反するあどけない様子に、春は違和感すら覚え始めた。拓馬の心の成長はきっと幼少期で止まっている。
しかもその成長の妨げはひと時の成長過程の欠落ではなく、彼を取り巻いていた環境そのものだと、春は察した。彼の育った環境はもしかすると自分には想像も出来ない世界かもしれない、そんな思慮に耽ながら春はいつの間にか空になったビール缶を、机の上に置いた。
山盛りのカレーを平らげて満足そうにお腹を摩る拓馬。拓馬の過去を勝手に想像し、今拓馬が満腹であることを嬉しく思う春は笑みを浮かべた。そんな春をじっと見つめる拓馬の脳内では、過去の断片的な記憶がよみがえっては消えてを繰り返す。その持ち続けることのできない記憶は、影のように存在は顕著でありながら正体不明であった。
春はまた顔の前で手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
ちらっと春が拓馬を見ると拓馬も春の真似をしてごちそうさまでした、と挨拶をした。それを見届けた後、春は自分の分の食器を持って台所に向かう。後に続いて台所に自分の食器を持って訪れる拓馬の表情は、この家に来たときよりも幾分穏やかであった。
春は拓馬に食器の洗い方を教え、意外に拓馬の物分かりが良いことを実感する。けれどこの経験もいつかは拓馬の脳内から消えてしまうのかもしれない、そんな虚しい思考に着地するのは春の性格上仕方のないことだった。
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