予防線
「マザコンかよ」
拓馬の姿が見えなくなってから、ぼそっと春は独り言を発した。拓馬の親になった覚えもないが、なんでもお母さんにやってもらおうとする息子のような気持ち悪さを拓馬に感じたが、拓馬の見た目の良さからか、春の姉御肌気質からかあまり不愉快ではなかった。
拓馬が風呂に入っている間、春は見られたくないものをベッドルームに押し込み、濡れた服を脱いで部屋着に着替えた。自然と春は拓馬のことを思い返す。見た目にそぐわない程精神年齢が低い拓馬には、きっと成長過程を阻害した何かがあり、十分な教育を受けていない。大人である春にはそんな想像が容易にできる。拓馬にどんな過去があるかは春にはまだ分からないが、拓馬の陰気臭い佇まいや人を寄せ付けない鋭い眼差しは、拓馬の過去がさほどいいものではないことを春に感じさせていた。
春が拓馬に名前を聞いたとき、春の目には拓馬が植え付けられた恐怖体験を思い出しているかのようにも見えた。怯えて助けを求めている拓馬を抱きしめ癒したいと思った自分に、春は気が付いている。女は男に対して可愛いと言う感情を抱いたら終わりだ、という言葉を春は思い出す。一体何が始まり何が終わるのかは分からないが、春はもう既に拓馬に情を持ってしまっている。この言葉的に言うなら、春は終わりだ。
春は過去の悲しい出来事があった時から、もう二度と他人を信じないと心に決めていた。人間は必ず裏切りいつかは去っていくものだと自分に言い聞かせ、余計な情を抱いて強欲な独占欲を持たないよう生きていた。拓馬への感情も例外ではない。拓馬に対し愛情を持って関係性を築いたが故に、いつか拓馬が去ってしまい喪失感に苦しめられる未来があまりにも鮮明に春には想像できた。
着替えが終わり、春はリビングの絨毯の上に体育座りをする。ただ、家族が見つかるまで置いてあげるだけだ、そう自分に言い聞かせ膝に額を押し当てた。雨粒の滴る綺麗な横顔を鮮明に思い出し、感じる心臓の高鳴りは非日常な出来事への反応で、決して拓馬を異性として意識しているわけでも愛くるしいものという認識を持っているわけでもないのだと自分の脳内に刷り込んだ。水の音が止み、そろそろ拓馬がリビングに帰って来るなと顔を上げた。そして春の予想よりも早く風呂場の扉は開いた。ちゃんとお湯は出せたかと春が拓馬に問おうとした瞬間、春の視界に若い男の身体が局部だけタオルで隠された状態で入って来た。
「これ、どうやって着るの?」
春は驚きのあまり声が出ない。先ほど脳内に不可抗力的に思い出していた綺麗な顔が、さらに色気のある状態で現れている。拓馬の濡れた髪からは水が滴り、細身で引き締まった体は艶やかでとてもまじまじと見られたものじゃない。春の心情も知らず拓馬はズボンを持ったまま、春に近づいて来る。
「来ないで!」
春は目を逸らし手で拓馬を制する。
「約束! 覚えてる?」
拓馬は動きを止めて春をじっと見ていた。
「春さんって呼ぶ。」
「あとは?」
「ベッドのある部屋には入らない。」
「あとは?」
「この家出ちゃダメ」
「あとは?」
「相手に見えないように着替える。」
「そう! それ!」
春は拓馬を睨む。
「今見えちゃってるから! 約束は破っちゃだめだよ。」
拓馬は自分の身体をまじまじと見てから、首を横に傾けた。春の怒っている理由が分からない拓馬を見て、春は呆れて目を覆った。
「今、着替えてない。」
この、屁理屈野郎。拓馬に対してそう思ったのも束の間で、意外に頭がいいんだなと春は感心してしまった。
「そういうのを屁理屈って言うんだよ」
春は目を細めて拓馬を睨むが、拓馬は春の言っていることが分からないようで下唇を噛んでまた首を傾げた。どうやら拓馬の言葉に悪意も他意もないらしい。ふぅっと春はため息をついて頭をひねった。
「じゃあこうしよう。お互いの裸は見せちゃダメ。分かった?」
拓馬は一度頷くと風呂場に戻って行く。そして扉の奥から、首から上だけを覗かせてズボンを春に差し出した。春はそんな拓馬の素直さに微笑みを隠せず、ズボンを受け取って履き方を拓馬に教えた。
拓馬に服の着方を教え、春はリビングの定位置に座りスマホでメンズの服を注文しようと探していた。しばらくして拓馬は服を着て髪から水を滴らせたままリビングに来ると、春は拓馬を手招きして呼んだ。春が自分の隣に座るよう床をポンポン叩くと拓馬は迷うことなくそこに座った。
すっかり拓馬からは警戒心がなくなったようで、まるで忠犬の様だ。春が拓馬の髪にドライヤーをかけ始めると拓馬は身動きを取らず、少々困惑した。しかし暖かい送風や春の優しい手つきで拓馬はすぐにドライヤーに慣れた。意外に乾かない拓馬の髪の毛は柔らかく、よく見ると白髪が何本か混じっている。ある程度乾いたところで春はドライヤーのスイッチを切った。そして白髪を一本手に取り、思いっきり抜いた。
「いっ!」
突然の刺激に拓馬は声を上げた。
「あんたもそんな声出すのね。」
春が拓馬をからかうように笑うと、拓馬は刺激が走った頭皮を掻いて不満そうに春を振り返った。
「ごめんって。」
春は笑いながらドライヤーをコンセントに指したまま床に置いて、もう一度スマホを見始めた。
「拓馬の服、どれがいい?」
そしてスマホの画面を拓馬に見せながら服を物色している。
「どれでもいい。」
拓馬はろくにスマホの画面を見ずに、気のない返事をした。春はいろいろな服を拓馬に見せては、これは似合うこれは似合わないと言葉を拓馬に投げかけている。そんな上機嫌で楽しそうに自分の服を探す春を、拓馬は不思議に思った。春の表情やしぐさにばかり目線が行き、言葉にまで注意が行き届かない。どれがいい? そう言って春が拓馬の顔を覗き込むまで、拓馬の耳には話の内容が入って来なかった。
「なんでもいい」
拓馬は春から目を逸らして答えた。呆れる春の言葉が聞こえていたがそんなことはどうでも良く、拓馬にとっては自分の服を探すことをどうでも良いこととしない春という存在が複雑怪奇でならない。終始笑顔の春が拓馬の中に知らない感情を生んだことは確かであった。
「じゃあこれにするよー」
自分の服に興味がなさそうな拓馬に春は一応声をかけ、購入ボタンをタップする。そして空腹感を覚え、春は夜ご飯を作るために台所へと向かった。そんな春の後を拓馬は付いて行く。
「座っていていいんだよ」
春は食材を冷蔵庫から取り出しながら拓馬に言った。しかし拓馬は返事もせず春をじっと見ている。まぁいいか、と春は料理に取り掛かった。背後でちょろちょろと忙しなく動く拓馬の様子が気になったが、春は特に何も言わず手際よく食材を切っていく。
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