それは懐かしく暖かな絆

 春にも昔は彼氏がいた。ぶっきらぼうであまり口の達者ではない男ではあったが、春は彼氏を愛していた。四年間付き合いそろそろ結婚かな、と淡い乙女心を輝かせ、毎日毎日遠慮もなく家に上がり込んでくる彼氏との生活を楽しんでいた。そんな矢先、彼氏から話があると言われ、春は小奇麗な服を着ていつもより凝った手料理を作った。しかし彼から渡されたのはケースに入った指輪ではなく、白黒のエコー写真だった。


「浮気相手に子供が出来た」


 そう告げられた瞬間、春の中にあった無数の違和感の点と点が繋がり線となった。同時に崩壊する清い未来への希望。嫌なほど彼に執着しようする自分の存在を知って、何度彼は最低な人間なんだと言い聞かせても、彼を失いたくないと春は抵抗しようとした。

 

 命は大事、だから早く浮気相手の元に行ってあげて。最後まで都合のいい女であり続けた春の口からはそんな言葉しか出なかった。彼に何度も抱かれた体を抱きしめても、春は彼を憎めなかった。彼を憎む気力すら沸いてこない、空気をいくら入れても潰れてしまう、穴の開いた風船の様だった。彼を責めて恨んで憎めばいいのに、春は彼について黙秘し彼と一緒に過ごした過去から目を逸らした。人は必ず裏切るものなのだと自分に言い聞かせ、二度と誰も信じないそうすればもう傷つかずにすむとも自分に言い聞かせた。

 

 家の前に付き立ち止まり、男の方へ振り返る春。男は歩調を乱さずゆっくりと春に近づいて来る。少しの間置いてあげるだけ、そんな風に春は自分に言い聞かせた。自分に母性があることも情が湧きやすい事も知っていての、無駄な抵抗とも言える自己暗示であった。一方男は視界に入って来る情報量の多さに疲労していた。


「ここが私のお家」

 

 鍵をポケットから取り出しながら春は言った。鍵を開けて春は扉を開き、男を玄関へ誘導する。すると男は黙って玄関の中に入って行った。春も後を追い玄関の扉を閉めて鍵をかけると、些細な物音にも男は反応し怯えているようだった。春が靴を脱いで家に上がると男も真似して靴を脱ぎ家に上がる。お邪魔します、などの挨拶は男からはない。春が廊下を歩き濡れた靴下を脱いでリビングに向かうと、男も同様に靴下を脱ぎリビングへと向かった。

 

 男はまるで親の真似をする生まれたばかりの小鳥の様だった。物音に反応し怯える姿は子供の様で、春の目からも疲労の様子が伺えた。リビングに付き春は男に体を拭くためのタオルを渡した。タオルを受け取りじっとタオルを見つめ肌触りを確かめる男。男は本当に記憶がないのかもしれず、抱いていた恐怖感は取り越し苦労だったかもしれないと春は思い始めていた。


「貴方、お名前は?」


 春は自分の結んでいた髪のゴムを外し髪の毛をタオルで拭きながら男に聞いた。しかし男から返答はない。


「やっぱり覚えてないの?」


 春の問いを皮切りに、男の脳内には断片的な記憶が飛び交い始める。荒れ狂う懐かしい男の声、異常に冷酷な何かを切り裂く音、同情憐れむ人々の眼差し。どれも見覚えがあるのに、誰なのか、なんなのかどうしても思い出せない。


「大丈夫?」


 男の顔を覗き込む春。春のまだ見慣れない表情でハッと我に返った男。額には汗をかき、呼吸が粗い。そんな男の様子を見て、本当にこの男は記憶喪失なのだと春は察した。ならばきっとご家族はこの男を探しているだろう、見つかるまで家に置いてあげればよい。起こるかもしれないと予想していた事件たちが、春の中で起こる可能性を限りなくゼロに近くなって消え去り、春は男への警戒心を緩めた。


 「じゃあ、君の名前は拓馬ね。」


 男のタオルを奪い取り、春は男の頭をわしゃわしゃと荒っぽく拭いた。男は状況がくみ取れず驚いて肩を震わせた。


「わかった?」


 手を止めて男と目を合わせて春は聞いた。男は瞬きも忘れてゆっくりと頷く。


「私のことは、春さんって呼ぶこと。あっちのベッドがある部屋には入らないこと。

あとは、私がいない時はこの家を出ちゃダメ。お互い着替えるときは相手に見えないように着替えること。そして何かあったらすぐに私に報告すること。約束だよ。」


春は片時も拓馬から目を逸らさない。


「わかったら、はいって返事すること。分かった?」


 拓馬の脳内には忙しなく春の言葉が入ってきていた。約束、それは過去にも経験したことのある懐かしく暖かな絆であるような気がした。


「はい。」


 拓馬は頷いて力をこめて食いしばっていた顎の力を緩め、歯を食いしばるのをやめた。優しく微笑む春の笑顔で、自分の求めていた柔らかさと温もりがここにあることを、拓馬は感じ始めていたのだ。それは拓馬にとって無意識の範疇であり、拓馬の過去によって生じていた。


「じゃあ最初にお風呂入ってきていいよ。あ、お風呂場はあっちね」

 

 春は風呂場の方を指さし拓馬がそちらへ動くのを待っていたが、拓馬はきょとんとして春を見ていた。


「お風呂、分かる?」


 拓馬は言われている意味が分かっておらず首を傾けて眉を顰めていた。


「体洗うんだよ。あったかいお湯で。」


 風呂場に向かって春が歩き出すと拓馬もそれに付いて行き、春は一通り風呂の入り方を説明した。


「ああそっか、着替えがないとね……」


 説明を終え春は拓馬を風呂場に置いたまま、リビングのクローゼットから拓馬が着れそうな自分の服を見繕った。そして大きめのTシャツと大きめのズボンを取り出し振り返ると、拓馬が春の真後ろに立ち春をじっと見ていることに気が付いた。


「な、何よ! びっくりさせないで。」


春が驚いて声を上げるが、拓馬は悪びれもせず春の様子をじっと見ている。


「これ、着替えね。今はこれしかないから我慢して。」


 拓馬に服を渡し、春はリビングのテーブル前に腰かける。すると拓馬も春の後を追って春の隣に腰かけた。そんな拓馬の様子を春は凝視し、春の感情がくみ取れない拓馬の疑問に満ちた眼差しがぶつかり合い、何とも言えない不思議な空気が漂い始めた。


「……お風呂入ってきなよ。」


 沈黙を破り春が拓馬に声をかける。拓馬は風呂場をちらっと見た後に、もう一度春へ視線を戻した。


「流石にお風呂までは面倒見切れないわ。一人で入ってきなさい。入り方わかったでしょ?」


 春は半分呆れて拓馬に言った。不服そうな顔をしたのちに、拓馬はようやく風呂場へ向かう。


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