オキナグサ

狐火

出会い

 日課のランニングで西田春がとある不思議な男に出会ったのは、雨がしとしとと降る梅雨の頃であった。雨の降る薄暗い公園の中、テンポよく走っている春の目に、遠くに人影があるのが見えた。


 多少の雨ならば大丈夫だろう、とランニングをしていた春だが、まさかこんな雨の中、自分以外の人がいるとは思わなかったためその人影に少し怯えた。方向転換し引き返そうかとも思ったが、今ここで不自然に方向を変えては男に変な気を起させるのではないか、と考え、ならば何食わぬ顔をして横を通り過ぎよう、と春は走るスピードを変えずにその男の居る方へ走っていく。


 男は黒い服を身にまといフードを被り、降って来る雨粒なんて気にもせず街灯を見上げていた。春はなるべく男を刺激しないように足音を立てずに走っていた。しかし、男は春が半径三十m以内に入った時街灯を見上げるのをやめて春の方を向き、春をじっと見ているようだった。


 フードで顔が隠れて春からその男の顔は確認できない。しかし春にはその男の薄気味悪い眼差しが、自分の正面に立っている姿の異様さで感じ取れた。


 春は自分を気にしていると男に悟られぬように目を逸らして近づいていく。けれども男のシルエットは春の好奇心を刺激し、春は男とすれ違う瞬間その男を盗み見た。春が通り過ぎるのを追って見ていた男と春は、その瞬間目が合った。


 目が合ってしまったと警戒心を持つよりも先に、ドキッと春の心が動揺したのは決して恐怖のせいではない。ほんの数秒春が見たのは、俗に言うイケメン、先ほどまでの異様な雰囲気を醸し出すシルエットからは想像もできないほどの美少年だった。


 すれ違ってからも春の胸の高鳴りは収まらない。背後から視線があるような気がしていたが、しかし振り返ってもう一度男の顔を覗き見ようという図々しい思考には至らず、春は足を止めることは出来なかった。


 体温の上昇で春の頭はぼーっとして、上手く働かない。走るという無意識でもできる行為のおかげで春の視界に入る景色は移り変わるが、脳裏には春の心臓を貫くほどの男の鋭い眼差しや美しい角を描く鼻筋が未だに映っていた。


 すると突然、背後から何か大きな物体が地面に落ちる音がした。春が驚き音の鳴った方を振り返ると、そこにあったのは既視感のある黒い物体だった。急いで近づいてよく見ると先ほどの男が地面にうつぶせになり倒れている。


「大丈夫ですか?」



 春は息を切らし、上がって来る酸っぱい何かを飲み込んでその男に声をかけた。先ほどまで感じていた恐怖やときめきを忘れ、春は男の安否を案じていたのだ。男は春の言葉に反応しうつぶせでコンクリートの地面に埋めていた顔を横に向け春を見上げた。


 その眼差しに釣られた魚のような気持ち悪さを感じ春はたじろいだ。虚ろ気で覇気のないその眼差しに血の通っていない物のような雰囲気を感じ、けれどそれは何とも寂しげでまるで捨てられた動物のようにも見えた。


 その時春を見つめていた男の脳には、あらゆる記憶が走馬灯のように断片的に溢れかえっていた。男の脳は考えることを放棄し、嘘か誠か分からぬ記憶を怖気づく男に自分の過去として知らしめている。


「僕は、なんなんだろう」


「え?」


 春は男の言葉の意図が分からず困惑した。男の言葉の色は味わい深く、決して嘘を言っているようには思えない。


 男の意識は現世界から乖離し始め、「どこから来たの?」「お名前は?」そう聞かれた過去の記憶がよみがえり始める。どこから聞こえて来る声なのだろう、男は上半身を起こし、辺りをキョロキョロ見始めた。


「覚えてないの?」


 はっきりとした春の声で男に聞こえていた幻覚は消え去り、男ははっとして現実に引き戻された。


 いつの間にか春は男を幼い子供のように思い始めた。男の容姿は紛れもなく成人男性だが、男から醸し出される雰囲気は幼く、大人の下心から放出される気持ち悪さを感じさせない。今ここで男が泣き出したとしても春は少しの違和感も覚えず、そっと手を差し伸べるだろう。


 ゆっくりと男は立ち上がり、男の顔を覗き込んでいた春も体勢を戻し二人は向かい合った。春は男の行動や言動を見聞しても、男の心情が分からなかった。男は濡れた自分の服を見ながら不愉快そうな表情を浮かべている。春は男の顔をじっと見て先ほどの質問の返答を待っていた。そんな春の視線に気が付き男は視線を服から春へ移動させる。


「覚えてない。」


 低い声で男は返答した。春を見つめる男の眼差しには、まるで捨てられた子犬のような孤独感があった。先ほどまで思い出せていた男の断片的な記憶たちは全て真っ白な空虚と化している。男は放心状態であった。


「どこに帰るのかも?」


 春の問いに男はゆっくりと頷く。抗いもなく迷いもなく頷く男の様子からは胡散臭さは感じ取れなかった。根暗と言っても足りない、生きることに無気力だと言ってもまだ足りない。明るさ、朗らかさ、意気揚々という言葉とは無縁の男のようだった。


「私の家、来る?」


 非常識なことを言っていると、春は重々承知であった。しかしそんな自分の行動を自覚しつつも男を放っておきたくないと思ったのだ。それと同時に、この男を部屋に招き入れ例え殺されたって自分の貞操が危ぶまれたっていい、と春は思った。それだけ春は自分の人生に疲弊していたのだ。


 そんな春の優しくけれどどこか侘しい表情に、母性の片鱗を感じそれと同時に自分に似た何かが共鳴する音を男は聞いた。その時男は本能的に求めていたあるものを春は与えてくれるのではないか、と春に好意を抱いたのだ。


 男は黙ってゆっくりと頷いた。春は自分が男に微笑みかけたかどうか、そんなことも分からぬまま自分の家へと歩き出す。後ろから聞こえて来る規則正しい足音で男が自分の後をついてきていると確認し、春は自分の行動を改めて思い返す。


 勿論春には彼氏がいない。だから家に男を連れ込んだって誰に咎められることはないが、根が真面目だと自負していた春は自分の行動に呆れていた。けれどこのままこの男を放って置いたら彼はどうなってしまうだろうか。雨に濡れて体を冷やし風邪をひいて気を失ってしまったら? 誰も保護せず野垂れ死にしてしまうかもしれない。そんな春の正義感が自分を正当化していた。


 思い出す、雨の中濡れることも厭わずに街灯を見上げる男の姿。常軌を逸する男の行動で同じ屋根の下にいるなんて大丈夫だろうか、そんな不安が春の心の池に映る。万が一、男が刃物などを持っていたら自分は一思いに殺されてしまうかもしれない。そんな情景を想像して春は身震いした。男を放って走り去ろうかとも思った。


 いや、でも、私はどうなってももういいかもしれない。春は後ろから自分を追いかけてくる男を振り返ってそう思った。例え殺されたって自分の人生に後悔はない、春はこれから起こるかどうかも分からない想像の世界を咀嚼し飲み込んだ。春はまた自宅に向かって歩き始める。


一方男は春を「自分を受け入れてくれた人」と認識していた。視界に入って来る風景をまじまじ見て、それらが不思議で気になって仕方ない。次々と興味の関心は変わり、集中力は全くない。ただ春に付いて行くことだけはやめなかった。


 自分について来る男、家に男が来る、その事実に付随して春は自分の悲しい過去を思い出した。

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