出会ってしまってごめんなさい

 風呂から上がり拓馬が台所に向かうと、いつもはしないエプロンをして野菜炒めを作る春の姿を見た。


「もう晩御飯作ったよ」


 そう言って拓馬は鍋敷きに乗る鍋の蓋を開けて、春の好物のシチューを見せた。


「これは明日の拓馬の分。明日用事できて帰り遅くなるからさ」


 春は申し訳なさそうな笑顔を浮かべて言った。その春の言いぐさが拓馬の癪に障る。きっとその出版社の男と会うんだろう、なのに用事とはぐらかすのは自分に隠したい心情があるのか、などと春を問い詰めたい気持ちで拓馬はいっぱいだった。


「そんなの気にしなくていいのに」


 けれど拓馬の口から出たのはそんな当たり障りのない言葉だった。


「その出版社の人と会うんでしょ?」


 拓馬は冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いだ。白濁した甘いそれを、少しも飲む気にはならなかったのに。


「うん、そうなの。ご飯食べて来るかも」


 喉を鳴らして抵抗する体に無理やり牛乳を入れる。飲み終わり大きなため息をつくと拓馬は胃の中で牛乳が暴れまわっているような感覚に陥った。


「そう」


 そして拓馬は牛乳を冷蔵庫に仕舞い、コップを流しに置くと思ったよりも大きな音がした。


「ちょっと、割れちゃうよ」


春は拓馬に小言を言って拓馬をちらと見る。


「ごめん」


 拓馬はコップを洗いながら声を漏らすように言う。春はなぜ拓馬が自分と目を合わせようとしないのか分からない。不思議そうに拓馬の顔を覗き込むが、拓馬はやはり目を合わせない。春は首を傾げて拓馬の口に豚肉を運ぶ。ぱくりとそれを口に入れて拓馬はやっと春を見た。


「……これちゃんと火通っている?」


 肉を咀嚼しながら拓馬は春を睨んだ。


「え?」


 春は目を見開いてフライパンで焼いた野菜炒めの具である肉を取り、菜箸で中をじっくり見た。


「大丈夫!」


 信ぴょう性のない春の笑顔に疑わしい目を向けて拓馬は肉を飲み込んだ。


「明日お腹痛くなったら春さんのせいだ」


「ええぇ」


 春は火を止めてエプロンを脱いだ。そして何かを思い出すハッとした顔をして冷蔵庫へ向かう。


「あ、やっぱり」


 そう言って春は冷蔵庫から牛乳を取り出した。


「消費期限、切れてる」


 拓馬は自分の腹を抱え、牛乳を睨む。


「この間そろそろ切れそうだなって思ってそのまま忘れてた」


 残り僅かの牛乳を流しに流して春は牛乳パックを洗った。


「お腹、痛い?」


「大丈夫」


 先ほど感じた違和感や腹の中の牛乳の暴れ具合は、自分の感情のせいではなく牛乳の消費期限のせいだったのだと知らされた拓馬は拍子抜けした。


「そっか、じゃあご飯にしよう」


 春は自分の好物のシチューを目の前にご機嫌の様子だ。鍋を火にかけ、ご飯をよそう。若干腹が痛いような気がしていたが、思い込みだ、と自分に言い聞かせ拓馬はスプーンを二本持ってリビングに向かった。ご飯にシチューをかけたい派の春とご飯とシチューは別にしたい派の拓馬はそれぞれ違うお皿を用意し、食事を始める。


 春が一口シチューを食べた時、拓馬はあっ、と声を上げた。ピタッと春は動きを止めて拓馬を見る。拓馬は春の口元を凝視し、記憶を遡りどうして牛乳が残り僅かになっていたのか思い出した。


「どうしたの?」


 いつもの拓馬なら、春にシチューを食べさせぬよう自分が消費期限の切れた牛乳をシチューに使ってしまった、と正直に話していただろう。


「なんでもない」


 けれど拓馬は本意を口にせずシチューを思い切り口に放り込んだ。それは二人の生活の中で唯一拓馬が春に働いた悪事だった。


(お腹を壊し、明日の約束を破ってしまえばいい)


 愛の歪みが引き起こした、二人の純真な関係の崩壊の瞬間。春には聞こえない崩壊の音を、拓馬は確かに聞いていた。


 しかし春が調子を崩すことを誰よりも恐れたのは拓馬である。その日の夜、拓馬はなかなか寝付けず起きて月を見ていた。月が綺麗ですね、I LOVE YOUをそう訳した夏目漱石は幸せ者だと拓馬は思う。出会ってしまってごめんなさい、自分ならそう訳すだろう。


 酷い劣等感の中、春を想うほどに苦しくて拓馬はこれがきっと恋なのだと悟る。明日目が覚めた時、春が苦しそうに腹を抱えていたら自分は一体何を思うのだろう、そんな問いを拓馬はいつまでも自分に課す。


(食べさせなきゃよかったと思うに決まっているじゃないか)


 春が幸せそうにシチューを食べる姿を思い出すほどに拓馬は泣きそうになり心憂く思う。ごめんなさい、雲に一瞬隠れた三日月に拓馬は言葉を発する。その声は例え月に届いても春の耳には届かない。自分の思慕の情は一生春には伝わらないことを、拓馬は察していた。


 もし仮に自分の恋心を春に受け入れてもらい身も心も全てさらけ出す関係になれたとしても、自分は一体春に何ができるだろうか。そう考えれば、男としてのプライドが自分という人間を情けないものにしてしまう。


 その情けなさから逃げるように春の前から姿を消してしまえば、また春は一人になってしまうのだ。春を傷つけることだけは何としてでも避けたい拓馬は、自分の恋心も嫉妬も何もかも自分の胸の内に秘めようと決めた。それが自分にできる最大限の愛情表現なのだと自分に言い聞かせて。


 拓馬の心の変化にも気が付かずに、次の日春はいつも通りの時間に起き帰りが遅くなると拓馬に告げて出勤した。春の身体の屈強さに引きながら、若干調子の悪い腹を摩って拓馬は春を見送った。


「やっぱりお腹痛い?」


「大丈夫」


 お腹が痛いと言うことがなぜか悔しくて、拓馬は口が裂けても不調を春には訴えない。心配しながらも春は会社へと向かう。

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