春の訪れ

 拓馬と春は、幸せな日々を送っていた。あれから拓馬の発作を見かける機会はほとんどなくなり、その代わりに拓馬は時たま思い出した記憶を春にぽつりぽつりと話す。そこで春は拓馬が虐待を受けていたこと、保護された施設でも陰湿ないじめを受けていたことを知った。


 どうやら拓馬はどうしても自分の名前や住んでいた場所を思い出せないようで、ここら辺の施設を歩き聞いて回ってみようかと春は提案した。しかし拓馬は首を横に振り、特段自分の記憶を取り戻そうとはしない。

 

「気にならないの?」


 もしかしたら拓馬の母親は生きているかもしれない、そんな淡い期待を春は持っていた。


「興味ないや。今幸せだからいい」


 そう言って拓馬はその話題から離れようとする。


「そう」


 無理やり現実を知ったところで拓馬の精神的発達が進むわけではない。しかし今の生活をずっと続けるわけにはいかない、と春は思っていた。ここ以外の居場所を拓馬に持たせたいと、その春の思いは薄々拓馬にも伝わっていて、その時拓馬は何とも形容し難い居心地の悪さを感じてしまう。


(ここに自分は居るべきではない、けれどこの幸せを手放したくない)


 きっと春はずっとここに居ていいよと言うだろうが、血の繋がりもなく恋人関係でもない自分がいつまでもここに居座るのは間違いだ、と拓馬は気が付いていた。失うことを恐れている春から離れるならば早い方がいいことが分かっていながらも、拓馬には何も実行する勇気が持てない。


 何か拓馬に居場所を設けるきっかけはないかと春が探していると、ある日春は仕事仲間の紹介で、出版社で働く坂口輝という男に出会った。


 坂口は人のよさそうな地味な男で、春は特に好意も抱かなかった。春は坂口が小説の出版に携わっているという話を聞いて、拓馬の小説を読んでもらい世に出せないかどうか判断してもらおうと思ったのである。


「坂口さん、ぜひ読んで欲しい小説があるんです」


 春は自分の友達に小説を書いている人がいて、読んで出版できる見込みのある小説かどうか教えて欲しいと頼んだ。


「いいですよ、ぜひ読ませて下さい」


 坂口は春の、綺麗だがどこかくたびれしおれた花のような見た目に慕情を抱いていた。


「ありがとうございます。よかったら連絡先を教えてください」


 春はすっかり嬉しくなって坂口と連絡先を交換した。そして帰路に就いたとき、もしかしたら拓馬は小説を他人に見せたがらないかもしれない、と持ち出しの許可を得る前に約束してしまったことを後悔した。

 しかし意外にも拓馬はあっさりと小説を春に渡した。


「いいの?」


 春が驚いて聞くと拓馬はなんの迷いもなく頷いた。


「一回書き終えた小説には執着がないんだ」


「そうなの?ありがとう」


 春は原稿を受け取りカバンに仕舞い、そして坂口に会う日取りを決めるメールを送った。若干嬉しそうな春を見て、拓馬は普段の春とは違う甘美な匂いで耽美的な予兆を感じる。


「それ誰に見せるの?」


 なるべく穏やかな口調で拓馬は春に聞いた。そのおかげで春には拓馬の心中が全く伝わっていない。


「今日仕事で知り合った出版社の人だよ」


「へぇ」


 仕事、そのフレーズだけで拓馬に頭痛を与える。自分より社会的地位のある男に、自分の小説が読まれ四の五の言われる屈辱たるや想像を絶する、そう拓馬は心の中で叫んだ。春は一言も男とは言っていないが、拓馬の脳内は対抗心と醜い嫉妬心でいっぱいだ。


「もし気に入ってもらえたら出版できるかもよ」


 春は嬉しそうに語るが拓馬はその言葉を嫌味としか捉えられない。


「そうだね」


 残暑の蒸し暑さの中、最後の力を振り絞って鳴く蝉たちが拓馬には五月蠅くて煩わしい。苛立ちや焦る思いを春に知られたくなくて、拓馬は風呂場へと向かった。汗をかいた体を冷たい水で洗い流し石鹸の匂いに包まれても心が洗われるどころか、この水一滴すら春の稼ぎによって受けている恩恵なのだと思うと自分に腹が立ち胸糞が悪い。


 情けない、そう思ってシャワーを止めると聞こえて来る台所で何かを作る音。きっと春が明日の弁当を作り始めたのだろう。それすら自分に任せてくれないのかと怒りの矛先が春に向かうのは、大誤算だ。


 生理的な欲求が満たされ自分の安全が守られる場を設けてもらい春と関係性を構築したことによって、自分の年齢に見合った社会的地位を何も確立できていないことに気が付いてしまった拓馬は強い劣等感を抱くようになり、このままではいけないのだと強く思うようになった。


 

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