死にたくなったら、思い出して。

「愛されていたから」


 目の前で涙を流す拓馬と過去の自分が重なり、春は自分の母親の心中が少しは理解できたような気がした。自分の子供が死ぬことを望む親は多くはないが、しかし存在しないわけではない。もしかしたら拓馬にあれほどの恐怖を与えた人間は拓馬の父親かもしれないと、春は勝手な推測を脳内で繰り広げ、それは間違ってはいなかった。


 春が死を望んだ時、生きることを求められることが一番の苦痛であった。しかし今となっては、生きることを肯定され存在することを求められることこそ愛なのだと分かる。


「私の命は、お母さんの心の一部なの」


 貴方が死にたいのなら私も一緒に死ぬと抱きしめられたことを春は思い出す。


 「みんな、自分が何のために生きるのかなんてよく分からない。第一そんなもの、答えはないの」


 自分はなぜ生きて行けるのか、何のために生きるのか。そんな問いをよく考えていた時期も春にはあったけれど、答えを出せずに時は過ぎていき、いつの間にか考えることを止めていた。確かなことは一つ、そんな問いの答えを求めようが求めなかろうが平等に時は進み、死期は近づいているということだけだ。


「私の命の誕生を心から望み、爪の伸びまで愛してくれた人たちが私に居場所をくれた」


 母の泣き顔を見た瞬間、自分は自分のためだけに生きているのではないのだ、と春ははっとした。自分の人生の結果を自死という二文字で表されたとしたら、一体自分に愛を持って接してきてくれた人の心はどうなってしまうのだろう。それを想像しただけで春はぞっとし、ならば自分のためではなく自分を愛してくれた人のために生きようと思った。


「そして私はその人たちを愛した」


 26歳まで生きた春だが、未だに愛というものの正体を知らず、しかしそれ以上に生きる理由になることをこの世で見つけることは出来ていない。愛に裏切られたはずの自分が、愛に救われるとは春は夢にも思っていなかった。


 「生きるの、何があっても。それがこの世に生を受け、一度でも他人から愛されたことのある人間の定めなの」


 春の優しい表情の隙間から、威厳ある廉潔な大人の雰囲気が垣間見られた。


「でも、僕には愛をくれる人なんていない」


 拓馬を苦しめる過去の出来事は、いくら春が慰めても消えることは出来ず、拭い去ることも不可能だ。春は拓馬の頭に手を伸ばし、拓馬に触れることすら恐れていた自分がいたことを思い出した。誰かと絆を築くこと、それをいつかは失いその喪失感は自分を苦しめるものだと予防線を張り続けていた春を変えたのは、拓馬の愛を求める純粋さだ。


「私は拓馬の過去を知らないし、何なら貴方の本当の名前も知らない」


 拓馬の心を覗けたらいいのに、そう思いながら春は優しく拓馬に言葉を投げる。


 「でも、もし拓馬が死んでしまったら貴方を生かすことが出来なかった自分を、私は死ぬまで恨み続ける。」


(死にたいと望む貴方に生きることを押し付ける私は、なんて愚かなんだろう。)


 自分の正義を相手に強要することに罪悪感を持つ春。けれど生きろと言わない選択肢は春の中には無かった。


 「私は絶対に自ら死なないから。死にたくなったら私を思い出して。私という貴方を想っている人間の心を踏みにじり阿鼻叫喚の世界を見せつけたいのなら、どうぞ死になさい。一緒に苦しんであげる。」


 泣きながら首を横に何度も振る拓馬。それでも春は口の動きを止めなかった。


「私は我が儘なの。だから拓馬がどれだけ苦しんでいるかも知らずに、生きることを強要する。でもこれは私に出会った拓馬の運が悪かったの、運を恨みなさい。」


 春の目にも薄っすら涙が浮かぶ。


「どんな時も、貴方の呼吸も瞬きすらも貴方の生きている軌跡だと想って、一つも逃さず指でなぞる私がいることを忘れないで。」


 初めて受ける存在の肯定の言葉に拓馬は戸惑った。目の前にいる血の繋がりもない赤の他人が自分を想い、そして涙を流していることに胸が熱くなる。一人で生きていると思っていた拓馬の心に春が訪れ、今まで聞こえていた自分を殺そうとする言葉がだんだん小さくなっていった。


 拓馬の涙を春は拭い、穏やかな顔つきになった拓馬に笑顔を向ける。そして拓馬をきつく抱きしめた。


「愛しているよ。」


 拓馬の耳元で囁く愛の言葉。今、拓馬はどんな表情をしているのか春には分からない。もし愛が形として存在し自分の身を削って渡すものになったとしても、春は何の躊躇もなく拓馬にそれを全て渡すことが出来るほど春は献身的な人間であった。


 春が今できる最大限の愛情表現を拓馬にして、拓馬に居場所が出来た。それは拓馬にとって初めての経験であり、自己の成長に著しく影響を与える。


「命は重くて、あまりにも軽いのよ」


(だからこそ軽い体を風に吹き飛ばされないように手を取って、重い想いを誰かと一緒に背負って生きていく)


 拓馬の身体を離しながら、春は拓馬に言った。


「どういうこと?」


 拓馬は合点がいかない顔をして首を傾げた。


「去る時も失う時も、あっという間ってことよ。」


(けれど時に、重いからこそ一人で背負ってしまう時もある。それで訪れる別れほど、悲しいものはない。)


 春は多くを語らず意味ありげな微笑を浮かべた。


「人間は弱いってこと?」


「そうね。」


 拓馬の間違ってはいないが、少々飛躍している答えに春は吹き出しそうになる。


「蜉蝣に殺されるぐらい?」


「カゲロウ?」


 春が聞き返すと拓馬は立ち上がり、本棚から以前春が拓馬に買った図鑑を取り出した。そしてページをパラパラとめくり春に見せた。


「これが蜉蝣だよ。」


 そう言って拓馬が見せたのは寿命が短く非常に弱々しい生き物であった。


「こんなには弱くないよ。」


 春は子供の逞しい想像力を見たような気分で拓馬に返事をする。けれど蜉蝣というのは弱々しい体の作りに美しさが見え隠れする生き物だな、と感心していた。


「でも、死ぬ直前には陽炎を見るかもしれないね。」


 夏の暑い日に風景が歪んで見える様子を春は想起していた。しかし拓馬は陽炎という言葉を知らず、目の前に蜉蝣の大群が押し寄せるイメージを脳内に浮かべている。


「なんで?」


 拓馬は春の言葉の意味がくみ取れず聞き返した。


「死ぬ直前って意識が朦朧としているじゃない?あんな風に靄がかかって見えるんじゃないかなぁと思って。」


 ますます拓馬の脳内は混乱し眉間にしわを寄せた顔を浮かべ、春はフフフと笑った。


「私が話しているのは、陽炎。太陽の陽に炎って書くんだよ。」


「それは、そんな生き物?」


「生きてないよ。靄がかかって見えることを陽炎って言うの。」


 へぇっと拓馬は感嘆の声を上げる。


「でも死ぬ前に蜉蝣がいっぱい目の前で飛んでいても、いいじゃない?」


 拓馬は図鑑の蜉蝣に触れながら言った。


(飛んだ蜉蝣が自分にぶつかり命果てても、拓馬は気にしないんだろうか。)


「そうね」


 考えていることとはちぐはぐなことを春は口走り、想像に耽る拓馬の横顔を見ていた。命の灯を失った蜉蝣に、拓馬の期待する美しさは存在していないような気がして、しかしそれを拓馬に伝えることは、まるでサンタさんを信じる子供にサンタさんの真実を伝えるような陰湿さがあるような気がした。


 しかし失いかけた拓馬の目の輝きを取り戻せたことに春は喜びを感じ、自分が未来に期待することを恐れていたことも忘れ、今年のクリスマスは久しぶりにプレゼントを用意しようか、などと思うのだった。


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