拓馬の過去
拓馬が家に来て二か月が経ったころ、二人の関係は深まることもなければ疎遠になることもなく、仕事に没頭する春と家に居て家事をする拓馬といった役割が固定化されていた。
それはそれで楽しい日々ではあった。しかし二人の間に確実に存在する溝は埋まることはなく、それはお互いに対する愛情の産物である。拓馬は春を穢したくなく、春は拓馬を傷つけたくなかった。
ある蒸し暑い夏の日、春は珍しく休みで家に居て二人はのんびりと時間を過ごしていた。カラッと晴れた、よくある夏の日であったはずだった。しかし厚く灰色の雲がこの世界を色黒く染める。
「なんだか曇って来たね」
春は窓から外を見ながらそう呟いて、拓馬もチラリと外を見たが、しかし何も答えない。雨が降る前に洗濯物を取り込んでしまおう、と春は窓を開けて洗濯物に手をかけそれを見た拓馬は洗濯物を受け取ろうと立ち上がって手を伸ばす。
低く唸るような音が、どこか遠くから聞こえて来る。雲が雷まで連れて来たな、春は灰色の雲を見上げて思った。洗濯物を拓馬に渡し終え窓を閉めようと春が外に背を向けた瞬間、稲光と共に激しい雷鳴が二人の身体に響き渡る。ガシャーン! と拓馬は春から受け取った洗濯物を床に落とし、雷に怯え耳を塞いで床に蹲った。
稲光で黒い影と化した春を見た瞬間、拓馬の脳裏にはまざまざと記憶がよみがえり始める。地面に打ち付けるほど強く雨が降っている暗い日、二度と自分の前に姿を現すなと叫び外に拓馬の体を地面に投げ付けた拓馬の父親。その時の父親は電光で黒い影と化し、雷が怖いと泣いた拓馬にさらに雷の恐怖を植え付けた。
空気を引き裂くのではないかと思うほど恐ろしい雷鳴は、音が弾ける度に拓馬の心を握りつぶす。自分の身を守る術すら知らない拓馬はコンクリートの地面の上で雨に打たれながら体を縮こませ恐怖した。
(そうだ、自分は自分の心を守るためにこの記憶を忘れていたのだ)
拓馬はパニック状態に陥り体中震えと汗が止まらない。呼吸したくても横隔膜が痙攣し上手く酸素を体内に送れない。今まで漠然としていた恐怖が姿かたちを表し、拓馬はこの恐怖から免れるには死ぬしかないと思った。
脳内では父の声だけが反響している。
(死ね、死ね、死ね、消えろ、邪魔だ、死ね、頼む、死んでくれ)
拓馬の様子に驚いて春は拓馬の傍に駆け寄り、何度もどうしたんだと声をかける。
「嫌だ」
自分の頭を押さえ、拓馬は声を絞り出す。
「嫌だ、死にたい」
生きることを拒否し始めた拓馬には春の言葉が届かない。
「怖い、消えたい、死にたい、消えてなくなりたい」
自分の存在を否定し始め目が虚ろになり錯乱する拓馬が、このまま自分の心を殺してしまうのではないかと春は思い、震える拓馬を抱きしめた。そして自分の存在を思い出させようと春は拓馬の耳元で、大丈夫と囁き続ける。
雷の音が次第に止み、拓馬の呼吸はまだ荒くれているが脳の深淵に沈む自分を、忘却の彼方から取り戻せたようで、拓馬は春の胸元から春を見上げた。憔悴しきった拓馬の顔は泣き疲れた幼い子供の様で、震える瞳は拓馬の怯えを表しているよう。
涙が伝う拓馬の頬に春が触れた瞬間、拓馬は異様なほど体を震わせ声も出なかった。触れればボロボロと崩れていく脆い風化した石器の様で、春は自分の存在が拓馬の脅威になってしまうことを恐れた。
「飲み物、持ってくるね」
春はそう言って台所に向かうため拓馬から離れるようとすると、拓馬は春の袖を掴み春が台所に行くのを阻止する。何も言わずとも拓馬が離れないで欲しいと思っていると春は察し、拓馬の目の前に座った。春にぎゅっと抱き着いて頬を擦り付ける拓馬は稚拙な子供の様で、春は何も厭わずに拓馬の後頭部を撫でる。
暫くして灰色の世界に日差しが照り始め、嵐が去ったと春はほっと胸を撫でおろす。
「拓馬、晴れてきたよ」
胸元にある拓馬の顔を春が覗き込むと、拓馬は腫れぼったい瞼から潤んだ瞳を覗かせて辺りをキョロキョロと見ていた。拓馬の顔が春の胸元から離れ、空の青さを知ると愁眉を開く。安堵の深いため息をついて拓馬は、心配そうな表情を浮かべる春をちらっと見た。
拓馬の何か言いたげな眼差しを受けて、春は何を言ったらいいのか分からず適切な言葉を脳内で探し回る。しかし言葉は浮かばず二人のいる空間は森閑に陥る。
「春さんは」
乾いた声で沈黙を破る拓馬。
「どうして生きていられるの?あんなに辛いことがあったのに」
悪意も悪気もない、疲弊と恐れに満ちた拓馬の言葉。きっと拓馬以外の人間に言われたならば、春はそれを皮肉だと捉えていただろう。しかしさっきまでの拓馬の様子を見て、春にはその言葉が拓馬の心の底から沸いた疑念なのだと察することが出来た。
死にたい
そう母に漏らした時のことを春は思い出す。心に秘めなければならないはずの希死念慮を親不孝にも自分の母親に暴露した時、愛した人に裏切られ失意のどん底に居た春は他人へ配慮をする余裕なんてなかった。
何故生きなければならないのかと憤り、自分に降りかかった不幸を全て自分がこの世に生を受けてしまったからだと決めつけた。みんな苦しんで生きている、悲しみを抱えて生きていると知りながら、自分の親を目の前にした時春は自然に死にたいと声を漏らした。嗚咽でそれ以外の言葉が出ずに、前を向いて母の表情を見ることすらできなかったのだ。
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