ナポリタンのピーマン
そして仕事終わりに春は坂口ととあるカフェで合流した。拓馬が家に来る前はよく飲みに行っていたが、最近仕事帰りに寄り道するのは久しぶりだな、と拓馬が来てから生活が一変したことを改めて春は実感した。
「夜ご飯も食べて行きます?」
坂口の提案に春は頷き二人はナポリタンとコーヒーを注文した。
「それで、見せてくれると言っていた原稿って?」
他愛もない話もすぐにネタが尽き、坂口はわくわくとした面構えで春に聞いた。
「これです」
春は拓馬の書いた原稿を坂口に渡した。
「拝見します」
坂口は一礼したのちにそれを受け取り、目を通し始めた。
「これぐらいの分量ならさほど時間はかかりません、今日お返しできますよ。お時間大丈夫ですか?」
正直すぐに帰りたいと思っていた春だったが、原稿を早く返して欲しいと思っていたので了承した。
坂口はすさまじい速さで原稿を読んでいく。途中料理が運ばれて来たがそれには手を付けず一心不乱に読んでいる。春も料理には手を付けず坂口の様子をポカンと口を開けてみていた。そしてものの10分ほどで原稿を坂口は読み終えた。
「これは、なかなか」
坂口は原稿から目を離し、深いため息をついて春を見た。
「どうでしたか?」
春は胸を高鳴らせながら坂口に問うた。
「この原稿は、西田さんが書いたものではないのですか?」
「私ではなく、友人です」
坂口は春にお礼を言って原稿を返し、春はそれを受け取る。もったいぶらずに早く感想を教えて欲しいと春はじっと坂口を見た。その視線を坂口はひしひしと感じ、言葉を選んでいた。
「そうですね、とりあえず食べましょうか」
坂口はいただきます、と言ってナポリタンを食べ始めた。春も続いてそれを食べ始める。
「この小説を書いたのは女性ですか?」
「男性です」
「それは、なかなか驚きです」
春が浮かべる優しい笑みは、春がこの小説の作者に慈愛を持っているのだと坂口に伝えた。二人の関係性は一体何なのだろうと春に好意を抱いている坂口は思う。
「私も初めて読んだ時驚きました。こんな文才があるなんて」
目を輝かせてそう語る春と自分の中に意見の食い違いがあるのは、自分がある意味小説を読むプロである以上、致し方ないのだと坂口は自分に言い聞かせる。
「確かに、なかなかこんな風に書ける人はいないですね」
坂口の言葉に春は嬉しそうに目を見開いた。ほくほく顔の春に、自分の意見をどう伝えるか坂口は頭をひねる。
「やっぱり、そうですよね!」
微笑を掲げた坂口はナポリタンを一口食べた。温かみはもうないがケチャップの甘みが麺とよく絡み、どこか懐かしい味わいが口の中に広がる。
「でも出版できるかどうかの話は、また別物です」
ナポリタンが喉を通り、坂口の胃がきゅっと痛んだ。
「それは、どういう意味でしょう?」
春の表情が一気に曇った。
「異端であるが、それ以上でもそれ以下でもない」
やはり、現実は甘くないのだな、と春は自分の抱いていた野望が思ったよりも遠い場所にあることを実感する。
「異端、だとは私も思いました」
「芸術は、自己満足でも美しければそれでいい。しかし金銭が発生するビジネスで
は、自己満足ではいけません」
坂口の厳しい言葉に春は下唇を噛んだ。
「もしこの小説家を売れる小説家にしたいのならば、私は力を尽くします。そう思わせるほど彼には見込みはある。けれどそれはこちらのエゴになってしまいませんか?」
自己満足で自分の世界を表現し続けていた方が幸せじゃないか、坂口は春にそう言いたかったのだ。
春は何も言えずナポリタンを食べる手を止めてしまった。あからさまにテンションが落ちている春を見て、何故そんなにもこの小説に期待を寄せていたのか坂口は疑問に思う。
「そんなにもこの小説が気に入りましたか?」
坂口はそう春に問うた。
「え、ええ。彼が初めて私に見せてくれた夢中になれることだったので……」
店員がコーヒーを持ってやって来た。店員に軽く頭を下げ拓馬はコーヒーを一口飲んだ。
「そうだったんですね」
坂口はそろそろナポリタンを食べ終えるが、春はまだ半分ぐらい残っていた。
「彼は、あまり今までの境遇に恵まれていなくて」
穏やかで物腰の柔らかい坂口に春は自然と心を開き、自分の心情をぽつりぽつりと話していた。
「やっと最近、自分の過去と向き合って精神的に大人になってきたなって思えるようになってきたんです」
春の話を坂口は静かに聞いていた。春の拓馬を語る表情から大人が子供を心配するような包容力を感じ、二人の関係性が恋人ではないことを坂口は知り安心した。
「だから小説を出版することをきっかけに外に出て、他人と関わって居場所を作れたらいいのに、って勝手に思っていました。それ以上にこの小説がいい作品であると思ったのは嘘ではないのですが」
コーヒーを一口飲み、その黒い光沢をじっと見つめる春。そのどこか哀愁漂う春の弱々しい女性的な雰囲気に隠れた、強く凛とした一面が坂口には酷く魅力的に見えて仕方ない。
「そうでしたか」
坂口は自分の口角が自然と上がってしまっていることに気が付き、口元を隠すためにコーヒーを飲んだ。
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