突然の申し出

「私には小説のイロハは知りませんし、彼がどう頑張れば小説でお金を稼げるようになるのか分かりません。今日それも聞けたらいいなと思っていました」


 真剣な春の眼差しは、坂口には見覚えがあった。坂口はいつもその眼差しを、生み出した小説を片手に自分の元にやって来る若い小説家たちから受けている。


(どうして他人の成功のために、そんな眼差しを自分に向けることができるのだろう)


 けれど一番大切な何かが、この小説には抜けていた。


「売れる売れない、それにイロハはきっとあるでしょう。けれどまだ僕にはそれが見つけられていない。僕はまだ27歳の若造で、お役に立てることと言えば、誤字脱字の指摘や小説の出版にかかる費用をお伝えすることだけです」


 坂口はカバンからファイルを取り出した。


「わが社では自費出版と言ってお持ちいただいた原稿を出版できるサービスがあります」


 そして春にそのファイルを差し出した。


「ただこの内容は、西田さんの意向に沿っていないと思っています。だから渡そうかどうか迷ったのですが、そういう方法もあるという程度に見てみてください」


 春は受け取り自費出版のご案内と書いてある紙を取り出した。そこにはとても春には払えそうもない金額が並んでいる。


「決して営業しようと思ってお話しているわけではないと、ご了承ください」


「はい、大丈夫ですよ」


 春は紙を見るのをやめてファイルをカバンに仕舞った、そして思った以上にことは上手くは進まないものだな、と春はコーヒーを啜る。情けなさや悔しさで、先ほどよりもコーヒーが苦く感じた。


「この小説に足りないものは、一体何だと思いますか」


 春の問いに、坂口は動きを止めて春をじっと見つめる。言葉を選ぶ坂口に、あまり気を使うなと春は細く微笑んだ。


「熱意、ですかね」


 冷めたナポリタンの、緑色のピーマンだけが存在感を強くしている。拓馬はピーマンが嫌いだ、そんな場違いな情報が春の脳内に浮かぶ。


「何を伝えたいのか、何を思って書いているのか、全く分からない」


 やはりそうか、と春は泣きそうになった。この小説から伝わって来る気怠さや虚無感は自分の理解できない芸術なんかではなくただの空虚なのだ、と春は坂口から目を逸らし横を向いた。


「でも僕は好きですよ。彼が人生経験を積みもっといい作品が書けるようになることを期待しています」


 自分も坂口も良い大人に囲まれて健全に育った幸せな人間なのだ。坂口の己の誠を語る顔つきで春は実感した。


「はい、私もです」


 志高く熱い心を持った壮年にシンパシーを感じながら、春は久しぶりに他人に深く敬意を表し頭を下げる。


「今日はお時間いただいて、ありがとうございました」


 この少ないやり取りの中でも春は坂口がいつもどれほど仕事に対して誠意を持ち作家と向き合っているかが分かった。男に負けたくないとひたむきに仕事に向き合ってきた春は、そんな坂口を見てやはり自分は男性の本気には敵わないのだと実感する。


「いいんですよ。むしろいい作品を読ませてもらって光栄でした」


 坂口も春に礼をした。


「あの、西田さん」


 坂口は顔を上げて意を決したように春の名を呼んだ。


「はい?」


「今度の休み、二人でどこか行きませんか?」


 少し早口で坂口は春に提案する。突然の申し出に春は目を丸くして坂口を見ていた。その視線に耐え切れず坂口は春から目を逸らす。


 起こる沈黙が坂口の心臓の鼓動を速め、その音が春にまで聞こえてしまいそうだった。


「で、でも」


「お付き合いしている人とかいるんですか?」


「いえ、いないですけど……」


 突然の申し出で春には坂口が急に魅力的に見え始めた。端正な顔立ちにピシッとしたスーツがよく似合う足の長い彼が、自分にとって尊敬できる大事な人になる予兆を感じてしまう。


「じゃあ、ぜひ」

 

 頬を若干赤らめて、坂口は上目づかいで春を見て言った。そんな表情をされたら、断れるわけがないと春は店の天井を見上げた。


「い、いいですよ」


 たまにくらい異性と出かけたって罰は当たらないだろう、春は自分の胸のトキメキに気が付かないふりをしてそんな言い訳を心の中で並べた。


「じゃあ今度の土曜日は空いていますか?」


 弾けんばかりの笑顔を春に見せて坂口は春に聞いた。


「大丈夫ですよ」


「じゃあ10時に駅前の噴水で! 噴水ある場所分かりますか?」


「良く集合場所になっている噴水ですよね?」


「はい、そうです」


「なら分かります」


 坂口は喜々としてスマホを取り出し予定を記入しているようだった。その姿が仕事に向かう時とだいぶ異なる可愛らしい様子だったので、その一面は自分だけに見せているものかもしれないと春は思った。そんなことは決してなく自惚れだと自分に言い聞かせるように、春は最後の一口のコーヒーを呷る。

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