私は健全な大人。
「例えば、この春さんが大好きなビールを飲むことを、可愛くないってその人が否定したとするでしょ?」
拓馬は春が膝を抱える手に握られたビールを指さして言った。
「うん」
「そしたら春さんは可愛いカシスオレンジなんて飲み始めちゃって、その人に可愛がられようと必死に顔色を窺い始める。そしたらその人は春さんをこう思うんだ。『自分の言うことを聞く、なんて可愛い彼女なんだ』ってね」
「そうやってどんどん日が経って、本当の春さんが死んでいって、その人が可愛いと思う嘘偽りの春さんが出来上がっていく。その嘘偽りの春さんはその人の思いのままに動くんだ」
春は黙って拓馬の話を聞いていた。春の口元が引きつっているのは、何か思い当たる節が元彼にあったからかもしれない。
「本当の春さんを生かしてくれる、愛がある人と恋愛しなきゃ特に女性は不幸になっちゃう。だって女性は自分の好きな人に常に愛されていたい可愛い生き物だから」
「そうね……」
春は何も否定せず拓馬の話を感心して聞いていた。
「その人は否定しない人だといいね」
春は不安そうに俯いた。
「浮気しない人なら、もう誰でもいいなぁ」
――俺でも?
すんでのところで拓馬の口からその言葉が飛び出そうとした。
(俺だったら、浮気なんてしない。一生大事にするよ)
大事にするって、一体どうやって?仕事もしていない、養われている分際が、何をほざいているんだ。自分への戒めの言葉が次々と拓馬の脳内に現れる。
「浮気しないことなんて当たり前なんだよ」
けれど拓馬の口から出たのは、そんな無難で当たり障りのない春への言葉だった。
「そうなんだけどさぁ」
春はビールを思いっきり呷って喉に酒を流し込むと、大きなため息をつく。
「不安なんだよ。また浮気されて裏切られるかもしれないって」
「見極められないものなの? 浮気する男って」
「私にはその能力はないかも」
情けない、と呟いて春は空笑いをした。
「すべてを打ち明けて、それでも隣に居てくれる人を選べばいいんだよ」
つぶらな瞳で春を見る拓馬、それはあまりにも切ない遠回しな愛の告白だった。
それに春は薄々気が付いていた。しかしその拓馬の好意を、自分にも経験のある、思春期に抱く恋愛感情と憧憬が入り混じった陶酔であると春は決めつけた。
陶酔、と表現するのはいくらか語弊があるような気がするが、それは真っ当で他人を大事にする人間だ、と自分を疑わない幼さがある時に抱くものである。
健全な大人である春は拓馬の好意を絶対に受け取ろうとはしない。
「そうね、坂口さんがそういう人だと良いんだけど」
女は鈍いふりをするのが得意だと春は思う。女は何も知らないように見せて、本当は男よりも鋭くいろいろなことに目を瞑っている。もしかしたら、自分という人間がそうであるだけで女と一括りにするのはいけないかもしれない、と春は手入れのされていない自分の爪を見た。
「きっと大丈夫じゃない。どっちでも今の春さんなら見分けられるよ」
自分を励ます拓馬の顔を、春は罪悪感から真っ直ぐ見ることが出来なかった。
「そうね。また話聞いてくれる?」
上目遣いでそう拓馬に懇願する自分はなんて卑怯なんだと春は思う。きっと拓馬はいつものように優しい笑顔でいいよと言うに決まっている。
「うん、いいよ」
(ほら、やっぱり)
拓馬の優しさに付け入る自分が春は憎たらしくて、しかし拓馬との関係を今のままにしておきたい春はこうするしかないのだ、と自分に言い聞かせる。
「ありがとう」
春は拓馬の髪をわしゃわしゃと撫でる。嫌そうな声を出しながらも心底嬉しそうな表情を浮かべる拓馬を見て、チクリと春の胸が痛んだ。
「お風呂入って来る!」
そして残りのビールを身体に入れて春は風呂場へと向かった。
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