乱される心

 春の居なくなったリビングで、拓馬は乱された髪の毛に触れる。


――浮気しない人なら、もう誰でもいいなぁ。


 何故かその言葉が拓馬の脳内をこだまする。その言葉を忘れ去りたくて拓馬は自分の頭に手を伸ばす。頭部に手が置かれたことで前髪が目にかかった時、何の抵抗もなく拓馬の目から涙が溢れて止まらなかった。蹲り必死に涙を止めようと、痙攣する肺に目一杯酸素を送る。


 自分の初めて愛した人が自分を少しも恋愛対象とせず、だのに自分以外のてきとうな人間と人生を歩むことを望んでいる事実が、拓馬には苦しくて仕方なかった。


 早く泣き止まなければ春が風呂から上がってきてしまう、そう思えば思うほど自分の状態は落ち着くどころか悪化していく。視界はぼやけて、いつもはかかない汗まで背中を伝った。どうしよう、と拓馬はうまく働かない頭で考え思いついたのはトイレに逃げるという手段だった。


 恋はこんなに切ないものなのか? 何故この世には浮気が出来る人間が存在するのだろう、と拓馬は自分の書いた小説の内容を棚に上げてそんなことを思った。


 自分の愛した人に好きと言われる喜びを噛み締めることもせず、好きな人の体温を知ることすら容易にできてしまう人がいることが理不尽に感じてしまう。この想いを打ち明けて一度でよいから春の全てを知りたいと、拓馬は自分の思考の恐ろしさを顧みずそんなふしだらな欲望を持った。


「拓馬、大丈夫?」


 風呂から上がった春は拓馬がトイレに籠っていることに気が付いて声をかけた。


「昨日の牛乳のせい?」


「そうかも」


 拓馬は涙声を出さぬよう簡潔な言葉で答えた。


「薬飲む? 確か家にあったよ。」


「いや、もう少ししたら大丈夫になるから」


 拓馬の返事に答えない春はリビングで腹痛に効く薬を探していた。


「あった。拓馬、リビングの机に薬とお水置いておくから。あと電気もつけておくね。」


「もう寝る?」


「うん、12時になっちゃったし、明日も仕事だから」


「おやすみ」


 トイレの扉越しに二人はそんな会話をした。ようやく落ち着いてきた拓馬は春がリビングからいなくなり奥のベッドルームに入る音を聞いてからトイレを出る。リビングには水と薬が用意されていて、ふと鏡を見ると拓馬の目は真っ赤になり、顔つきはいかにも泣き顔といった風貌になっていた。


 水まで丁寧に用意され、若干の罪悪感は覚えつつも拓馬はそれを嬉しく思う。電気を消して暗闇で薬を二錠、何の不調も訴えていない腹に流し込んだ。コップを洗い、薬を包んでいた紙を捨てて拓馬は敷いていた布団に寝転がる。


 天井を見上げて拓馬が思うのはこれから先の自分についてだった。自分には一体何ができるだろう、自問自答しても世の中を知らない故に何も答えは見いだせない。異端という二文字の烙印が押された自分の小説の表紙を握りしめ、それを破り捨てたい衝動に駆られる。


――でも私は好きだよ。


(俺も好きだよ、春さんが。きっとこれから春さんが出会う男たちの何百倍も、春さんのことが好きだよ)


 許されるならば今すぐにでも泣き喚きたい、けれど拓馬は声と涙を押し殺しタオルケットを被った。残暑が落ち着き涼しさを感じられるこの頃でも、タオルケットを被れば暑苦しさを感じてしまう。胃がキリキリと痛むのはきっと薬のせいだと自分に言い聞かせ、拓馬はぎゅっと目を瞑りゆっくりと夢の世界へと落ちていく。


 一方の春は拓馬の体調を心配しながらもベッドの中で坂口のことを思い返していた。トイレから出て台所でコップを洗う音が聞こえてきてほっとした春は、カフェで坂口が言った言葉を断片的に思い出し、そしていつの間にか眠りに落ちていった。



 次の日拓馬はまだ腹が痛いと嘘をつき、仕事に行く春を見送らず、春に顔が見られないようにタオルケットを被っていた。春が出勤した音を聞いて、拓馬はようやくムクっと起き上がる。顔を洗って鏡に映る少し腫れぼったい顔をまじまじと見た。


 自分の顔はその坂口という男よりも整っているのだろうか? と、何を思うにも拓馬の脳内に物差しとして坂口が出てくる。そこで初めて拓馬は鏡に映る自分が、嫉妬し険しい表情をしているのを見た。獲物を狙うオオカミのようで、一重で切れ長の目がぐっと顔の中心に集まり今にも牙をむき出しにしそう。


(こんな顔、春さんには見せられない)


 拓馬は自分の頬に手のひらで触れて、上下に動かし顔の筋肉をほぐした。頬に手を置いたまま口角を上げて、作り笑顔を鏡に映した。その気持ち悪さに幻滅し拓馬はすぐに口角を下げる。こんなに気持ち悪い笑顔を今まで春さんに見せていたのか? と拓馬は肩を落とし、自分の見た目に自信を無くした。


 そんな拓馬の心情も知らず、春は帰宅してから目が合う度に自分の顔を隠す拓馬のよそよそしい態度を怪訝に思った。


「どうしたの、顔なんて隠しちゃって」


 持ち帰った仕事をこなしながら春は拓馬に聞いた。


「俺の顔、気持ち悪い」


「は?」


 春は作業の手を止めて拓馬をじっと見た。そして目を細めて春は物言いたげな表情を浮かべる。


「そんな整った顔しておいてなんてこと言うのよ」


「え?」


「かっこいいから安心しなさい」


 戯言を抜かすなと言わんばかりに春はもうその話題に触れるのはやめて、また仕事に取り掛かった。


「俺かっこいいの?」


 すっかり拓馬は気分を良くし春の隣に腰かけて聞く。満更でもない顔をする拓馬を見て、なんて単純なのだと春は苦笑いした。


「はいはい、かっこいいよ」


「へぇ」


 緩みっぱなしの口角から涎が垂れても気が付かないのではないか? と春が思うほど、拓馬は上調子で体を左右に揺らしている。


「明日の私のお弁当作ってくれたら、もっとかっこいいかも」


 春のその言葉で即座に立ち台所に向かう拓馬。台所からしょうがないなぁと声が聞こえる気がするが、拓馬の上機嫌な様子に春はニヤニヤしながら仕事を進めていた

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