ほかの男に解かれませんように
山積みの仕事を何とか終わらせて、春は土曜日を迎えた。土曜日が近づくほどに行く気が薄れ仕事を理由に断ろうかと思い始めていたが、一度交わした約束を破ることが春には出来ず、とうとう土曜日になった。朝5時に目が覚めた春は静かに起きてトイレへと向かう。その物音で拓馬も目を覚ました。
「おはよう」
トイレから出た春はその拓馬の声に驚き肩を震わせた。
「おはよ、起こしちゃった?」
のっそりと起き上がりトイレへと向かう拓馬へ春は言った。
「ううん」
若干寝ぼけたまま拓馬は答え、トイレに入った。春は顔を洗いいつもより入念に化粧水をつけた。仕事用の化粧はものの五分で終わる。けれど今日はアイシャドウやらチークやらを服に合わせた色味を付けなくては、と自然と力が入る。
タンスに仕舞っていた化粧ポーチを取り出してリビングの鏡の前に春は座る。
「何着ていくの?」
いつの間にかトイレで用を足し終え、春の隣に座っていた拓馬が化粧ポーチを覗きながら春に聞いた。
「どうしようかな……」
春は化粧ポーチを机に置き、自分の衣服が入ったクローゼットを開けて何着か服を取りだす。そしてリビングの床にそれを並べた。
「こんなの持っていたんだ」
拓馬は白の小さい花が散りばめられた黒いワンピースを手に取った。
「うん。前に買ったんだけど似合わなくて着てないの」
「そう? 髪型変えれば似合いそうだけど」
拓馬は立ち上がり春の身体にそのワンピースを当てる。
「うーん、そうかなぁ」
春は白のインナーと黒のガウチョパンツの組み合わせを手に取った。
「こういう組み合わせの方が無難じゃない?」
「仕事に行く時と全然変わらないじゃん」
うーんと春は頭をひねった。
「華やかな方がいいよ」
拓馬は春の持っている服を奪い、ワンピースを春に渡した。
「似合うかなぁ」
鏡を見ながら自分の体にワンピースを当てる春。
「似合うよ。大丈夫」
「似合わなかったら責任取ってよね」
春はワンピースを持ってベッドルームへ向かう。
「うん」
絶対可愛いから、大丈夫。その言葉は拓馬の心にとどまった。
可愛らしいワンピースを着て、綺麗な化粧を施す春の横顔を拓馬はじっと見ていた。いつもはファンデーションと薄く口紅しか付けない春が、鼻筋に影を、鼻先や目尻の下に光沢を、瞼や頬には華やかな彩りを設け、そしていつもより口紅は濃く塗る。意外にも春の化粧が上手いことに拓馬は驚いた。
「あんまり見ないでよ、恥ずかしい」
色付いた春の顔はいつもよりも美しく、化粧映えとはこのことかと拓馬は惚れ惚れした。
「化粧上手いね」
「そりゃぁ、彼氏がいたころは命かけていたから」
鏡で自分の顔をじっと見つめる春。
「やっぱ私、ちゃんとすれば可愛いよね」
冗談半分で春は自画自賛した。
「うん、綺麗だよ」
(どこにも行かせたくないぐらい、綺麗だよ)
隣に居るにも関わらず拓馬の強い想いは春には届かない。ありがとう、と春は呟いて黒い真っすぐな髪の毛を櫛で梳かした。そしてヘアアイロンの電源を付ける。
「これ熱いから、触らないでね」
春は拓馬にそう忠告した。
「これ何?」
拓馬は初めて見るヘアアイロンには触れず、首を傾けてまじまじと見た。
「髪の毛に癖をつけるんだよ」
温まったヘアアイロンを手に取って春は毛先を外跳ねに癖付けた。
「え、すごい」
全体の毛先を外にはねさせ、次に毛の中間部分を内巻きに癖付ける。前髪は軽く巻いて短い触角は外に跳ねさせて、今どきの「ゆるふわ」を演出する髪型が完成した。
「すごい」
拓馬は感心して春の髪の毛を見ている。
「髪の毛は温めると癖がつくんだよ」
春は拓馬の長い前髪を一束手に取り、ヘアアイロンで外跳ねに癖付ける。
「ね?」
拓馬は寝癖のように外に跳ねた前髪の一部を鏡でまじまじと見ている。春はヘアアイロンの電源を切り熱い部分が当たらないよう机に置いた。
「これ、一生このまま?」
春は立ち上がり拓馬の言葉に吹き出した。
「水で濡らせばすぐ元通りになるよ」
鏡の前に立ち自分の身なりを整えながら春は答える。
「やっぱりワンピース変じゃない?」
ワンピースの裾を掴み春は拓馬に聞いた。
「どこが?」
前髪の癖に触れながら拓馬は春を見る。春は全身どこから見ても申し分なく綺麗だ。
「美しすぎて直視できないよ」
「直視しているじゃない」
「俺は直視できるよ。見慣れているから」
口をへの字にして春は拓馬を睨む。
「いいじゃん、別に。俺が綺麗だと思うんだから」
「みんながみんな、拓馬みたいに変人じゃないの」
「俺変人なの?」
拓馬は立ち上がって春の背後に回る。そして背中でほどけているワンピースの細いリボンを結んだ。
「これでもう脱げないね」
(どうかこのリボンが、ほかの男に解かれませんように)
そう願いをこめて春の背後から拓馬は顔を出し、二人は鏡に映るお互いを見た。
「大丈夫、綺麗で可愛いから。自信もって」
春の顔が女性らしい艶やかな顔に変わった。薄暗かった外はもうすっかり明るくなって、輝く春の瞳がいつもより茶色く見える。
「ありがとう」
春との日常を手に入れる変わりに、自分のためにおめかししてくれる春を手に入れることが出来なかった拓馬。それは拓馬にとってある意味幸せなのかもしれないが、なんだかやるせない。
「おなかすいたね」
時計を見るとまだ七時で、春は何か作ろうかと拓馬に聞いた。
「目玉焼きでも焼こうか」
拓馬はそう言って台所へ向かう。冷蔵庫を覗くと食材が少なく、作れるものが目玉焼きと味噌汁ぐらいしかなかった。
「今日の拓馬のお昼ご飯、どうしよう」
拓馬の後をついて来た春は冷蔵庫の中身があまりにも少ないことに驚く。仕事に明け暮れ春は食料の心配をするのを忘れていた。
「いいよ、気にしないで」
拓馬はフライパンを熱し卵を二つ割り入れた。
「おなかすいちゃうよね」
春はリビングから財布を持ってきた。
「私コンビニで拓馬のお昼ご飯買ってくるよ」
「え」
財布一つで外に出ようとする春の腕を慌てて拓馬は引っ張った。
「ご飯食べてから一緒に行こう」
春の家からコンビニまで10分ほどかかる。道中春が変な奴に絡まれたり、ナンパされたりすることを拓馬は恐れて春を引き留めた。
「ん? 一緒行く?」
拓馬は何度も頷き、春は必死に自分を止める拓馬を不思議に思いつつ台所に戻った。
「そっか、好きな物買いたいよね」
見当違いなことを春は言っていたがそれを否定することなく、拓馬は手際よくわかめと豆腐の味噌汁を作る。春はご飯を二人分よそい電子レンジで温めると箸をリビングに持っていく。二人の生活が始めってもう三か月以上経ち、二人の醸し出す空気感は家族のようなものだった。
二人はご飯を食べてその後他愛もない話をしながらコンビニに行く。この瞬間をこの後のデートの何倍も楽しいものだと春が感じてくれればいいのに、と拓馬は願っていた。
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