不明瞭だった好意
行ってきますと告げて若干不安そうな春に笑顔を向けた拓馬は、春が居なくなった家の中で負の感情に心が押しつぶされそうになっていた。
拓馬に少しの期待を持たせるこの家での思い出は、いつかはほろ苦く懐かしいものになってしまうかもしれないと拓馬は目を瞑る。その時が訪れるならば早い方がいい、と拓馬は春に借りたパソコンを操作しながら思うのだった。
待ち合わせ場所に10分ほど前に付いた春はいつもとは違う慣れない自分の格好に、そわそわと落ち着きのない様子だった。この格好を見て年甲斐もなくデートに浮かれていると坂口に思われたら嫌だな、と春は服装を後悔した。今更後悔しても遅いと春は腕時計を見てため息をつく。
暫くして坂口らしき男が歩いて来るのが見えて、春は駆け寄った。
「坂口さん」
きっと仕事着ではないから気が付かないだろうと春は坂口に声をかけた。駆け寄る春の声に反応し坂口が春を見つけると、坂口は目を見開き春を凝視した。
その眼差しに羞恥心を感じ春は目を逸らす。はっとして坂口も春から目を逸らした。
「すみません、あまりにこの間と雰囲気が違うものですから」
頬を赤らめて坂口は謝罪した。
「い、いえ。いつもは着ない服ですから私も着慣れてなくて」
顔の前で手を振る春は服装を失敗したと思い恥ずかしさで帰りたくなった。
「え?」
春の言葉に坂口は感嘆の声を上げる。声の色が変わった坂口に春は驚いて、坂口を見上げた。
「いつもは着ないんですか? そんなに似合っているのに?」
坂口の言葉で春は自分の頬が紅潮し、体温がみるみる上がっていくのを感じる。羞恥に耐えるように下唇を噛む春の様子を見て、坂口は春の初心さと純粋さを知った。
仕事熱心で少し堅物だと紹介された時に聞いていたが、それ以上に可愛い人だと坂口はより春に愛おしさを覚える。
「行きましょうか」
坂口は春に微笑んで言った。するといつもは大きい春の瞳が細く三日月型になり、ピンク色の唇から真っ白な歯が遠慮がちに顔を出す。可愛いという言葉では到底形容できないその表情を見たその時、坂口は自分の不明瞭だった好意を恋心だと確信した。
二人は歩き出し映画館へと向かう。道中たまに起こる沈黙も苦ではなく、居心地の良さは出会って数日の関係性にしては珍しかった。
「そういえば、西田さんってお幾つなんですか?」
「26歳です」
「じゃあ僕の一個下ですね」
年齢差を感じさせない坂口は気さくな人なのだろうと春は思った。
「敬語じゃなくていいですよ」
「じゃあ西田さんも敬語止めてくれますか?」
「分かりました」
早速敬語を使う春を坂口は笑った。
「まぁそのうち慣れてくれば、敬語も消えるでしょう」
そうこうしているうちに二人は映画館に着き、坂口は大人二枚分のチケットを買った。
「あ、出しますよ」
そう言って春は財布を取り出した。
「敬語、使ったから僕の奢りで」
チケットを一枚差し出し拓馬は意味ありげな微笑を浮かべる。
「敬語使ったら、奢られる仕組みなんですか?」
すみません、と呟きチケットを受け取って、また敬語を使ってしまったと口元を抑える春。
「そう。また使ったからお昼ご飯は僕の奢り」
坂口は嬉しそうに春の肩を叩いて映画館に入って行く。
「じゃあ私は夜ご飯、奢る」
敬語を止めてロボットのような話し方をする春は、自分の口調の可笑しさにフフッと笑った。
「いいよ、お昼は僕の一押しのお店、夜ご飯は西田さんの一押しのお店で」
「一押しのお店?」
指定された席について春は聞いた。
「この間先輩に教えてもらったパスタ屋さんがここら辺にあるんだ。そこに行こう。夜ご飯はどこにする?」
「へぇ~……」
春は脳内で生ビールを頼み枝豆とたこわさびを口に運ぶ自分を想像した。春の一押しのお店はデートには似合わない小さくて少し汚い飲み屋だ。坂口にそんなお店を紹介するなんて、と思い一押しのお店なんてないと言おうとしたがその時春は拓馬のこの間の言葉を思い出した。
――本当の春さんを生かしてくれる、愛がある人と恋愛しなきゃ特に女性は不幸になっちゃう。
ちらりと春は隣に座る坂口を見た。視線に気が付いた坂口は、ん?と首を傾けた。
「一押しのお店、デート向きじゃないんですけど、いいですか?」
ここで嫌な顔をしたら、さようなら。そう思って春はそんな質問を坂口に投げかける。
「西田さんって飲み屋で豪快に生ビール飲む感じの女性でしょ?」
想定外の坂口の返答に春は目を丸くする。
「大丈夫。甘いカシスオレンジを飲むような女性よりも、貴方は可愛いから」
ブーッと映画開始の音がして、春はその坂口の言葉に返事も出来ず異様な喉の渇きを感じながら映画を見ていた。拓馬との会話を聞いていたのかと思わせるほど、100点満点の返答をした坂口に春は驚きを隠せない。
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