第33話 父さんの耳元で


 あらためて全員で座ると、フリッツさんの背の高さが際立つね。

 スタイルが良くて足も長いのに、座っていてさえ視線の位置が誰よりも高い。

 そして、話し始めたのを瑠奈が落ち着いて訳してくれて、ようやく普通の会話ができるようになった。

 とはいっても、ほとんどがでっち上げで母さんを丸め込むためのものなんだけど。

 父さんのしたことは、母さんには内緒だからね。


「この方は、若いときに相当な心労をされていて、心臓にその負荷が蓄積しているようです。

 そのときの心理的負荷が今になって吹き出したため、生きることに対する忌避感が身体に反映してしまっているのです。

 生きたい、生きていてもいいんだ、そういった意志を取り戻してもらうことが必要です」

 って、瑠奈がフリッツさんの話を翻訳する。


 どうせ、嘘八百なんだろうけど、あとでつじつま合わせがしやすいことを言ってるんだろうね。

 でもって、冗談でなく「生きたい、生きていてもいいんだ」っていう意思は、取り戻してもらわないと困る。

 父さん、生きる意志を完全に手放しちゃっているからね。


 あとは……。

 父さんの生命を刈って魂を回収しようっていうことが、早くキャンセルされないと。そうすれば、母さんにもう少しましな話ができる。

 でもって、一番肝心なコレ、いつになったら効果が目に見えてくるんだろう?


「生きたいっていう意志を、本人に持たせられればいいんですね?」

 母さんが念を押した。

 フリッツさん、表情にちょっと動揺が浮かんだけど、うなずいて見せてくれた。

 フリッツさん、嘘が下手だ。

 嘘が下手な僕が言うんだから間違いない。

 悩んだ末嘘を吐くことにした、っていう葛藤が顔に出すぎなんだ。


 でも、母さんはそう取らなかった。

 どうやら、「生きたいっていう意志を、本人に持たせるのはとても難しいぞ。できるのか?」っていう表情だと取ったらしい。

「私が、なんとかします!」

 母さんが、そんな宣言をするだなんて。

 母さんのことを、単なる皮肉屋としか思っていなかった僕はびっくりしたよ。



 母さん、立ち上がるとベッドの脇から上半身を倒して、父さんの耳元に話しかけた。

「聞こえる?

 私よ、美子」

 父さん、反応しない。

 たぶん、身体こそ生かされているけど、気持ちも体感している身体も死んじゃっているんだ。


「結婚するとき、あなたが言ったこと、憶えている?

 私の名前の漢字、部首は羊だって言ってたわよね。

 私が羊として、なにかの生贄のされないように、絶対守るって言ったわよね。

 ……あのね。

 もしかしたら、私を守ってくれた結果としての今かもしれないんだけれど……。

 ねえ、それでも、もう守ってくれないの?

 私のこと、一生守ってはくれないの?

 約束のもの、まだ未完成なんだよ。

 それに私、まだまだ生きたい。

 あなたと生きたいの。

 ねぇ、聞いている?」

 病室に、母さんの声だけが響いた。

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