第2話 退避、隠伏


 男は半ば後悔している。

 東京、皇居周りから走り出して、銀座を経て、勝鬨。

 周囲は倉庫が目立ちだしている。

 照明の当たらない場所の闇は深い。

 一見、逃走には良さそうだが、人を隠すならば人の中が鉄則である。逃げるという一点においては、間違った判断と言えた。

 さらに言えば、内陸に逃げればどの方向にも走れたが、海沿いのエリアでは逃げる方向が限定される。追う者に有利になってしまうのだ。


 そうは言っても、人のいる方へ逃げるというのは、よほどに強靭な精神力を持っていても難しい。さらに、追ってくる者の手口が警察のものでない以上、この闇の中でなにかを仕掛けてくるのは必然といえた。

 ただし、これは男にとって一概に悪いことではない。

 反撃の機会を得られるということだからだ。

 男にはプロの自覚がある。

 走り続ける体力は維持してきたし、左手で拳銃を扱う訓練もしている。

 ピンチとは、チャンスに変えうるものなのだ。



 男は決断した。

 走り続けていたずらに体力を消耗するより、この場で敵を倒す、と。倒せないまでも正体を確認できれば、反撃は容易い。


 倉庫街の道は広い。

 男は、片側3車線の道路を渡り、中央分離帯の植え込みの隙間に身を投げる。

 広い道路に挟まれたそこは、どこから近づくにしても視野を遮るものはない。道路に設置された街灯は、追跡者の姿を晒しあげるだろう。



 荒い息も、数分で収まる。

 さらに数回深呼吸を繰り返し、折れた右人差し指の痛みを意識から追い出す。

 左手で拳銃を握り、脛にくくりつけたナイフも抜きやすいよう、ズボンの裾を上げた。

 戦闘態勢は整った。

 腹筋を使って上半身を起こし、植え込みの陰から周囲を窺う。

 だれもいない。


 見えるのは道路と植え込み、そして道路の両脇の街路樹と倉庫のみ。

 かなり先で信号が点滅し、車が走っているのが見えるが、こちらに入ってはこない。


 男は、安心しなかった。

 男の感覚は、自分の目で見た事実を信じていなかった。

 誰かに見られている。

 その感覚は執拗に男の胸を灼き続けていた。



 男は腹筋を緩め、仰向けに横たわる。

 東京の夜の街のざわめきが、風に運ばれてくる。

 それ以外の音はない。

 耳を澄ませて30秒。

 ようやく男は、自分の感覚よりも自分の目と耳を信じようという気になっていた。


 大きく息を吐きだし、腕時計で時刻を確認する。

 スマホも持ってはいる。ほぼすべての機能を殺し、足取りを追われることはないようにしてある。画面の明るさも最小限に絞っている。

 でも、このようなときにスマホに頼るのは、勇気というより蛮勇に近い。


 あと10分。

 あと10分経ったら、ここから移動しよう。

 人の感覚はあやふやなものだ。だから、10分と決めても、感覚による時間では5分も待てない。だからこそ、情報端末ではない、きちんと時間を確認できる機器が必要なのだ。

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