7月8日[木] 実況中継お兄さんに捕まって

 実況中継お兄さんに捕まった。


「お~っと?頭皮に雨を感じたのか、上を見上げると傘を広げたぁ!」


 外に出て傘を広げるや否や、後ろから威勢のいい声が飛んできた。振り返れば、スーツに赤い蝶ネクタイの黒ぶち眼鏡の男性が嬉々とした表情でわたしを見ていた。手にはマイクが握られていた。


 彼は早口に言った。

「今わたくしは上を見上げると言った訳でありますが、上を見上げるという表現は果たして適切なのでありましょうか?重複した表現ではないのか?若干疑問に思っている訳であります。上を見る、でよいのではないか?とも思うのであります。

 しかし、見上げるという言葉が存在するのも事実。上以外に一体どこを見上げると言うのでありましょうか?ならば、上を見上げるという表現もまた是ではないでしょうか?

 今現在。犯罪を犯す。アイドルの初デビュー。歌を歌う……。普段何気なく使っている重複表現。このような日本語学者が考える哲学的疑問を抱えつつ、わたくしも、まさしく今現在、こうやって実況を続けているわけであります!!」


 嗚呼、油断した!実況中継お兄さんに捕まってしまった……。実況中継お兄さんに捕まると、やることなすこと一挙一動を実況中継されるのだ。

 実況中継お兄さんは、わたしが車の運転席に座ると助手席に飛び乗った。わたしたちは、一緒に買い物に出掛けた。


 それからというもの、車を降りてさっそく。

「さあ、わたくしたちがやって来たのは町のショッピングモールであります!雨は止んでいるのか…?止んでいるぅ!先週末から雨がちのお天気、傘が手放せない!さて、そう言っている間にも、エントランスへさしかかった。さぁ、まずは検温だぁ…。果たして彼は大丈夫でありましょうか?体温は…、36.2度!クリア!

 マスクで表情はうかがい知れない訳でありますが、しかしその眼は、心なしか安堵の表情!さて、次にアルコールスプレーを手に噴きかけ、しっかりコロナ対策!丁寧に揉みこむ。おお!?忘れがちな爪の間や親指も、入念に除菌を行っているぅ!」


 レストラン街で昼食を取ろうとしたときも。

「おおっと、今日のランチは天丼か?いや視線を横に移した!さっぱりとざるそばにするつもりかぁ?」


 買い物の際も。

「やってきたのは靴屋さん。目の前には、たくさんの革靴が並んでいるぅ!どうやら彼は革靴を買うつもりのようだ。おっと、一つを手に取った。いや、戻した。これではない!こっちか…?どうやら彼の買い物の基準は値段のようだ。一番値段が安いものを選んでいるぅ!

 …さあ、靴は決まったようだ。次はサイズだ。26.0cmか?26.5か?はたまた25.5を選ぶのか?靴のサイズはメーカーやその靴自体で微妙に変わってくるところではありますが、一体どれを選ぶのでありましょうか!?」


 ……こうして、夕方家に帰るまで、わたしは彼に付きまとわれ続けた。

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