第2話
二度目の投薬は彼女の体調を見て、一週間ほどあいだを空けて行うことにした。
服も下着も脱いで、毛布で体を包んだ彼女に、私は小皿を差し出した。
「塗り方は前回と同じだから」
私が差し出した小皿にはデンプンのりのように、わずかに粘り気のある透明な液体が乗っていた。私が生成した毒だ。
彼女は小皿を受け取ると薬指ですくおうとして、ぴたりと手を止めた。一向に動かない手を不思議に思って、彼女の顔を見つめて私は息をついた。
彼女の顔は青ざめていた。唇を噛み締めて、小皿を持つ手も、薬をすくおうとする指も、細い体も小刻みに震えていた。
「ちょっと待って。すぐ。すぐに、落ち着くから……」
彼女は小皿を見つめたまま、へらへらと笑った。だが、彼女の薬指は震えるばかりで、小皿の上の毒に触れようとしない。
一回目のときには何が起こるかわからなかったから、無鉄砲に毒を飲むことができたのだろう。だが、彼女は毒の苦しさを味わってしまった。血の気が引いて、脂汗が浮かんで、吐いても吐いても逃れられない気持ち悪さと鈍い痛みを知ってしまった。
無意識に体が拒絶しているのだ。生物として正しい反応だ。羨ましくもあり、新鮮な反応でもあった。
私は彼女の手から小皿を受け取ると、そっと銀の髪を撫でた。
「今日はやめて……」
「だめ!」
私が言い切る前に、彼女が叫んだ。思ってもみなかった強い口調だった。
「明日はもっと……怖くなってる。今日、やらないと……」
祈るように両手を握りしめて、私を見上げる彼女の目には、大粒の涙が浮かんでいた。泣くほどに、体が言うことを聞かなくなるほどに怖いのに、どうしてそんな風に言えるのか。
私は毛布ごと彼女の体を抱きしめていた。小さな体はまだ震えていた。だが、
「マーガレットが塗って。お願い」
何を言っているのか。そう聞き返すよりも早く腕を引かれ、思わずベッドの端に腰かけていた。彼女は私の足を枕にして仰向けに横たわると、口を開けた。歯磨きをお願いする幼い子供のように。
でも、目は真剣そのもので――。
「わかった。……私の指を噛み千切るなよ」
私はシーツの上に小皿を置くと、左の指を彼女のあごに添え、右の指で小皿の毒をすくった。
「努力します」
真剣な表情で、不安になるようなことを言う彼女に、私は苦笑いした。彼女にしていることを思えば指を噛み千切られるくらい、どうということもないのだが。
「……っ」
彼女の口内は温かく、頬の肉は柔らかかった。きつく目を閉じて、必死に大きく口を開ける彼女を私は複雑な気持ちで見つめた。愛おしさと罪悪感とがない交ぜになって、私の口元には自然と苦い笑みが浮かんでいた。
私の指が頬の内側に触れるたび、彼女は体を強張らせた。小皿に乗っていた毒を口内にすべて塗り終え、手元を拭ってから、
「終わった」
私はそっと彼女の強張った頬を撫でた。恐る恐るといった様子で目を開けた彼女は、弱々しい笑みを浮かべた。
塗り終えたら私の膝枕は用なしになるかと思ったのに、
「マーガレット。手、つないでて」
彼女は私のお腹に額を押し付けると、私の方へと手を伸ばした。経過を観察して、メモを取らなくてはいけない。迷っていると、
「お願い」
ダメ押しのように、潤んだ目で私を見つめてきた。これはたぶん、確信犯だ。
私は額を押さえてため息をつくと、
「わかった」
彼女の手を取って、もう片方の手で銀色の髪を撫でたのだった。
***
私の家と診療所は村の端にある丘の上に建っていた。感染病が流行ったときのためにと、母が村から少し離れたところを選んで建てたのだ。
だが、生活するには不便が多い。例えば、買い物だ。
街まで下りるだけで、徒歩三十分ほどかかってしまう。大量の食料や日用品を買って帰るには、辛い距離だ。長時間、診療所を空けるわけにもいかない。仕方なく街で商売をやっている友人に宅配を頼んでいたのだが、診療所を閉めた今も持ってきてもらっていた。
「こんちはー! 頼まれてたもん、買ってきてやったよ!」
勝手知ったる我が家状態。ノックこそするものの、返事を待たずに裏口のドアを開けて、リザは満面の笑顔で台所に入ってきた。一週間、二人分の食料や日用品が入った箱をどさりとすみに置いた。
「ありがとう。はい、お代」
「まいど。それとここにサインな。……奥に運んでやろうか?」
「いや、大丈夫。これ、また一週間後にお願いするよ」
私が差し出した買い物リストを一瞥して、リザは叱りつけるような目で私を見つめた。
「たまには街におりてきたらどうだ?」
もう二年近く、街に下りていない。リザにも耳にタコができるほど言われたけれど、行く気にはなれなかった。微笑むだけで何も答えようとしない私に、リザは呆れたようにため息をつくと、
「はいよ、また来週な」
私の手からメモを受け取って、さっさと裏口から出て行ってしまった。
「ありがと」
怒らせてしまっただろうか。心配しながら背中に向かって言うと、リザは振り向かないまま。ひらりと手を振った。ほっと息をついて振り返ると、
「マーガレット、何が届いたの?」
彼女が私を見上げて首を傾げていた。
「今週の食料」
「しまうの、手伝うよ!」
箱に入れたままでいい。そう、私が言うよりも早く、彼女は箱の中の食料を広げ始めた。
頬には赤みがあり、手の爪もきれいな桃色をしていた。呼吸も乱れているようすはない。
五度目の毒の投与を行ったのは二日前のことだ。
毒への耐性が付き始めているのか。解毒剤投与までの時間は最初に比べて、ずいぶんと延びていた。その分、解毒剤への耐性もついていないか心配だったが、今のところは問題なさそうだ。
これなら明日には六度目の投与を行えそうだ。
「マーガレット、じゃがいもはどこに入れるの?」
「足元。床下収納に入れるんだ」
「カビの生えたニンジン、発見!」
「……どいて、捨てるから」
何が楽しいのか。彼女はけらけらと笑いながら箱の中身を片付けていく。とは言え、女二人分だ。大した量はない。あっという間に片付け終えると、
「これくらいの量なら買いに行けばいいのに」
彼女は唇を尖らせた。
診療所には娯楽と呼べるものがない。本は医学書ばかりだし、そもそも彼女は本を好んで読まないようだ。折角、暇つぶしを見つけたのに、すぐに終わってしまってつまらないと思っているのだろう。
が、すぐに手を叩くと、
「来週分はいっしょに買いに行こうよ!」
愛らしい笑顔で私を見上げた。彼女のわがままはできる限り、聞こうと。お姫様扱いしようと思っている、けれど――。
「街に行きたいのなら、一人で行くといい。ここでのことさえ話さなければ、行動に制限はない」
邪気のない笑顔から、私は黙って目を逸らした。彼女はじっと私の顔を見つめたあと、
「マーガレットは生真面目すぎるよ」
私の心を見透かしように言って、唇を尖らせた。
***
ベッドの端に腰かける私の足を枕にして、彼女は静かに目を閉じていた。彼女との共同生活が始まって、半年。彼女に毒を投与した回数は、すでに四十回を超えていた。
何かあったときのためにと相変わらず、投与の前には服も下着も脱いでもらっていた。夏になったとはいえ、このあたりは涼しい。薄手のタオルケットで体を隠しているけれど、彼女も前ほどは気にしなくなった。
彼女の額の際には汗が浮かんでいたが、目立つほどじゃない。ときどき薄目を開けて、私の白い髪に手を伸ばしては甘ったれの子供のような笑みを浮かべていた。
毒への耐性は、かなりついてきたようだ。腕時計を確認し、
「三十六時間経過」
私は大きくうなずいた。
「目標時間達成だぁ!」
「暴れない。ほら、大人しくして」
勢いよく起き上がったかと思うと、ベッドの上で飛び跳ねる彼女の腕を引いて、無理やりに座らせた。一応はベッドの端に腰かけたものの、彼女はうれしそうに体を左右に揺らしている。
三十六時間――。
それは彼女の母親である領主様と私が定めた目標時間だった。
解毒剤を飲まず、あの悪魔に怪しまれるような不調も出ない程度に毒への耐性をつけさせること。どうにか最低ラインはクリアした。ほっと息をつきながら、彼女の白くて細い体を確認していく。
手首に指をあて、脈を確認する。ベッドに横たわらせて、腹部を手で押すと彼女は微笑んで首を横に振った。特に痛みはない、ということだ。最後に聴診器を当てて、問題がないことを確認して、
「さ、解毒剤を飲んで」
液体の入った小さなビンを差し出した。彼女は一気に飲み干すと、
「予定よりも早く目標を達成しちゃうなんて。私ってば、すごく優秀なんじゃない?」
鼻高々といった様子で胸を張った。大喜びしているところ、実に言いにくいのだが、
「いや、予定よりも少し遅れているくらいだ」
私は事実を事実として告げた。彼女はきょとんとして首を傾げた。
毒を口内に塗布するのは、あの悪魔に口移しで毒を飲ませるためだ。口移しとは、キスで――ということ。あの悪魔と嫁いだ娘がキスする機会は恐らく、ベッドの中、夜伽のときしかない。
三十六時間という目標時間は毒を飲み、あの悪魔が寝所に来るのを待ち、行為を終え、あの悪魔が寝所を出ていくまでの時間と、解毒剤をすぐに飲むことができない不測の事態を考えて設けた猶予を含む時間だ。
あの悪魔に、彼女がされるだろう行為をわずかにでも想像して、私は奥歯を噛みしめ。大きく深呼吸をした。
「次からは投与のあとに運動を行う。腹筋、背筋、長距離走、山登り……」
「待って……待って、待って! 母様から聞いてない? 私、すっごい運動音痴なの!」
見当違いの悲鳴をあげる彼女に、私は目を丸くした。
「学年で一番、足が遅いし。体もかたいし、持久力ないし……!」
あまりにも必死に訴える彼女に、私は思わず噴き出した。大笑いして、笑っていることに気が付いて、私は慌てて口を手で押さえた。
笑うことなんて――こんなに穏やかな気持ちで笑うことなんて、私には許されていないのに。
私の顔を不思議そうにのぞきこんでいた彼女が、
「マーガレットは優しいのね」
不意に微笑んだ。皮肉か、嫌味だろうか。
彼女の紫紺の瞳を見つめると、そこには眉間に深いしわを作って彼女を睨みつける私が映っていた。白い髪と黄色い瞳と相まって、まるで鬼のようだ。
私は彼女の瞳から目を逸らした。
「バカなことを言うな」
毒を飲ませ。苦しみ、もがく彼女を観察し。実験結果を事細かに記していく。そんな人間のどこが優しいと言うのだろう。だが、――。
「ううん、優しいよ」
彼女は微笑んで首を横に振った。
「だって、いつも私のそばにいてくれる」
「経過観察のためだ」
「一生懸命、看病してくれる」
「早く体力を回復してもらわないと、次の投与ができない。時間は限られているんだ」
「私が苦しんでいるとき、私以上に苦しそうな顔をしてる。優しくない人は、そんなに苦しそうな顔をしないもの」
私の頬を小さな手で包んで、彼女をこつんと、私の額に自身の額をくっつけた。
「わかってるよ。母様やマーガレットが私に毒を飲ませるのは、姉様たちの仇をとりたいから。王様を殺したいから。姉様や私や、マーガレットみたいな人をこれ以上、増やしたくないから」
怖い夢を見て泣きながら起きた夜。母親が幼い子供にするおまじないだ。怖い夢を見ないように。良い夢が見れるようにと、額を合わせるのだ。
怖い夢どころか、ただの夢すら、もう何年も見ていないというのに――。
「だから、私は。それでも、マーガレットのことが大好き」
――良い夢が見れますように。
おまじないのお決まりの一言を最後に呟いて、微笑む彼女がふと大人びて見えた。
***
街とは反対方向にある川までは、一時間ほどの道のりだ。腹筋、背筋、屈伸と準備運動をしてから、ゆっくりとしたペースで川まで走って、折り返して戻ってくる。
お決まりの運動をこなして診療所へと戻ってくると、彼女はベッドに倒れ込んだ。毒のせいではなく、元からの体力のなさが原因らしい。
彼女が休んでいる間に夕飯を作り、彼女といっしょに食べ。お皿を洗い終えたら、診療所のベッドへと向かう。
手首に指をあて、脈を確認する。ベッドに横たわらせて、腹部を手で押すと彼女は首を横に振った。聴診器を当てて、問題がないことを確認して、解毒剤を渡した。彼女はビンに入った液体を一気に飲み干した。
「隣にいるから。気持が悪いとか、少しでもおかしなところがあったら声をかけるように」
「マーガレットは寝ないの?」
黙って頷く私を見上げて、彼女は唇を尖らせた。
投与後の運動は毒のまわりを速める。当初は準備運動の時点で嘔吐していたが、半年のあいだで準備運動のあと、二時間のマラソンを行っても、目標であった三十六時間を耐えられるようになっていた。
あと一週間で、彼女は十六才の誕生日を迎える。国からは彼女が誕生日を迎えたら、すぐに嫁がせるようにと手紙が届いていた。
彼女と私の一年に及ぶ共同生活も、これでおしまいだ。
毒の訓練自体は、これで最後だ。三日ほど経過観察をしたあと、彼女は自分が生まれ育った邸に戻る。そして誕生日を迎え、あの悪魔の元に嫁ぐのだ。
「あっという間だったね」
私の心を見透かしたかのように、彼女はぽつりと呟いた。寂し気な表情を隠そうともしない彼女に、私はあいまいに微笑んだ。
「王様も、あっという間に殺されてくれないかな。そうしたら、すぐにでもマーガレットのところに帰って来れるのに」
「家族のところに……だろ?」
「ううん、マーガレットのところ。もちろん、母様のところにも帰るよ。でも一番初めはマーガレットのところ!」
ベッドの端に腰かけると、彼女は待っていましたとばかりに私の足に頭を乗せた。仰向けになって私を見上げて、にひっと歯を見せて笑った。子供のような笑顔に微笑み返して、そっと銀の髪を撫でると、
「ねぇ、マーガレット。私のキスは王様を殺すための道具なんだよね」
彼女が私の手首をつかんだ。
一年間、いっしょに暮したけれど、彼女はいつだって少女らしい表情しか見せなかった。私の心を軽くしようと、ふざけて、お道化ていた。それなのに――。
「マーガレット。一つ、お願いがあるの」
そう言って、体を起こした彼女は怖いほど真剣な表情をしていた。大人びて、艶めいた表情をしていた。
一週間後、彼女は十六才になる。
十六才は大人として扱われる年齢だけど、突然、大人になるわけじゃない。
「私の、初めてのキスを受け取って」
子供は徐々に大人に。少女はゆっくりと女に変わっていく。
「誰かを殺すための道具じゃなく。大好きな人に、大好きって気持ちを伝えるためのキスは。初めてのキスは、マーガレットがいい」
ベッドが軋む音がした。紫紺の瞳が私を見つめたまま、ゆっくりと近づいてきた。灯かりのついていない薄暗い部屋で、彼女の白い肌と宝石のような瞳は自ら光を放っているようだった。
彼女を止めようとして、結局、やめた。お姫様のわがままはできるだけ聞きたいから、というわけではない。
この一年、私の心は彼女に救われていた。純粋な無邪気さと、気遣いからの無邪気さと。どちらもあっただろう。それでも確かに、彼女に救われていたのだ。
彼女を愛しいと思うようになるには、十分な理由だ。
目を閉じて。彼女のキスを、気持ちを、受け取ろうとして――。
「マーガレット」
彼女の声に、私は彼女の肩をつかんで、押し戻していた。
「イオ……!」
反射的に彼女の――エララの姉の名を叫んで。二年前にあの悪魔に殺された、愛しい女性の名を叫んでいた。
彼女は――エララはゆっくりと目をしばたたかせた。紫紺の瞳が揺れた。一瞬、泣くかもしれないと身構えたが、
「ひどいなぁ、マーガレットは」
エララは困ったように笑うと、ベッドに横たわり、毛布を頭まで被った。
「やっぱり生真面目だよ、マーガレットは」
彼女はそう言って、私に背中を向けた。
***
彼女が邸に戻る日の朝、彼女を診療室の丸椅子に座らせて、私は二つのケースを見せた。
「毒はこっちのケース、解毒剤はこっちのケースだ」
丸くて底の浅い小さなケース。毒は青いフタ、解毒剤は白いフタだ。
「王宮側には常服薬として話を通してある。毎週、一週間分を届ける。もし使っていないものがあっても、その週の分が届いたら前の週の物は廃棄するように。……聞いているのか?」
書き物机の上のケースをじっと見つめる彼女に、私は嘆息した。この一年間、何度も言い聞かせてきた。今、聞いていなくても大きな問題にはならないのだが。
「可愛くない」
「は?」
あまりにもどうでもいい指摘に、私の口から素っ頓狂な声が漏れた。
「だから、そのケース! ぜんっぜん、可愛くない!」
「毒と解毒剤なんだぞ。可愛い必要があるか」
「ある! あるに決まってる! 可愛いと気持ちがウキウキして、解毒剤の効き目が良くなるんだよ! 病は気から、って、言うでしょ!」
私は額を押さえて、深々とため息をついた。正直、ケースのことなんてどうでもいいと思うのだが。当の彼女は唇をとがらせ、キッと私を睨みつけている。お姫様のわがままだ。聞くしかない。
「どうすればいい?」
丸椅子から立ち上がると彼女は診察室内をぐるりと歩いてまわった。薬品棚の前で足を止めたかと思うと、
「この透明なやつがいい!」
棚の中を指さした。私が見せたケースと形は同じで、全体が透明なものだ。私は黙って頷いた。
「で、解毒剤と毒をそれぞれラッピングペーパーに包んで」
「ラッピングペーパー?」
思わずオウム返しにする私を無視して、彼女は真剣な表情で話を続けた。
「解毒剤には白い物、もう片方には色違いの同じ物をくくりつけて目印にするの。毎週、違うのじゃないとダメだから」
「毒は乳白色で、解毒剤は透明だ。特に目印をつける必要は」
「白と、色違いのモノが目印ね。手抜きして同じ物や可愛くない物を目印にしたら、解毒剤、飲まないから!」
澄まし顔の彼女に、私は再びため息をついた。お姫様のわがままだ。聞こう。
「だが、なんで白い物なんだ。指定が大雑把過ぎる」
「マーガレットって白いお花でしょ?」
あまりにもあっさりとした調子で言う彼女に、私はきょとんとした。
「黄色い瞳と真っ白い髪。黄色いめしべとおしべのまわりに、真っ白な花びらのマーガレットの花そのもの。マーガレットのお母様、名前の付け方が単純だよね」
そう言って、エララはにひっ、と、歯を見せて笑ったのだった。
***
この国の空は晴れることがほとんどない。イオを見送った日も曇り空だった。今日、エララを見送るこの日も鈍色の空が広がっていた。
邸の玄関の前にはエララと、彼女の母親――領主様が立っていた。国からの馬車が到着するのを待っているのだ。
エララは真っ白なドレス姿だった。花嫁衣装だろう。領主の娘にしては質素なドレスなのは、領主様のせめてもの抵抗だろうか。
うつむいていた彼女が不意に顔をあげた。
「マーガレット!」
歩いてきた私に気が付いたらしい。ぼんやりとした表情が、この一年間で見慣れた無邪気な笑顔に変わった。
ドレスのスカートのすそをつまんで、走りにくそうにしながらも駆け寄ってくると、私の首に飛びついた。一年で少しだけ背が伸びていた。私は彼女の背中をそっと撫でた。
「二人とも」
領主様が低い声で言った。街を真っ直ぐに貫く石畳の道を、邸に向かって黒い馬車が走ってきた。彼女を迎えに来た馬車だ。
「エララ、あの悪魔の血を根絶やしにするんだ」
「わかっています、母様」
母親の呪いのような言葉に笑顔で頷いて、彼女は私から体を離そうとした。そんな彼女を、私はもう一度、強く抱きしめた。
「絶対に帰ってくるんだ」
この一年、私は心地よいぬるま湯に浸かっていたのだ。
「待って、いるから」
あの悪魔を無事に殺せた、そのときは――現実と向き合わなくてはいけない。
「マーガレットは生真面目だなぁ」
私の心を見透かしたように言って、エララはくすくすと笑った。
「うん、待っていて。マーガレット。絶対に帰ってくるから」
もう一度、私に抱き付いて、彼女は体を離すと背筋を伸ばした。今まさに到着しようとしている馬車を見つめ、艶然とした笑みを浮かべた。
エララは馬車に乗せられ、悪魔が待つ王宮へと向かった。馬車が小さくなって、見えなくなって、あたりが暗くなっても。私は馬車が走っていった方角を見つめていた。こうやって何人を見送っただろう。母や友人や、イオ――。
祈るように、両手を強く握りしめようとして、私は力なく腕を下ろした。
神に祈っても無駄だ。なら、何に祈ればいいのだろう。
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