第31話 終わる世界

 気が付くと俺は紅い天井を見上げていた。

 窓から夕日が差し込んできているのだろうか。部屋全体が紅く染まっている。

 今、何時だろう。俺は上体を起こして、ベッド脇に置いてあった時計を見てみる。

 針は夕方の4時を指していた。

 あれ、俺が家に帰ってきたのは4時過ぎていたよな。時計の電池が切れて遅れているのだろうか。

 とりあえず、俺は自室を出て1階へと向かおうとした。その途中、階段の窓から見える景色を見て俺は不可解に思う。

 車が1台も走っていない。人っ子ひとり歩いていない。

 これはどういうことだろうか。このくらいの時間なら、車も人もひっきりなしに通っているはずだ。

 なぜ、急にこんなに静かになったのか。それにこの夕焼け空の色はなんだ。

 俺は窓の向こう側の空を見て思う。目に飛び込んできたのはまるで現実離れした、この世の終わりを想起させるような鮮烈な紅蓮色。

 …………ちょっと、外に出てみよう。

 俺は階段を降り、玄関から家の外に出る。

 ……空気が暑い。とても2月のそれとは思えない。

 それに、


「……なんなんだこれは!」


 思わず声に出してしまった。

 周囲の景色がところどころ、空間がゆがんだようにぼやけて見える。それはまるで、壊れた液晶パネルが映し出す画面を見ているかのようだ。

 これでは本当に、世界の終末じゃないか。こんなことが現実にあり得るのだろうか。いや、否だ。

 考えられることがあるとすれば、ひとつしかない。ここは、現実世界ではない。あの倉敷さんがいる世界だ。

 でも、いつもお決まりの金縛りがなかったのはなぜだ。いったい、この世界に何があったのだろうか。

 ……そうだ。倉敷さんはどうしたんだろう。

 学校に行ってみよう。もしかしたら会えるかもしれない。

 ……なんだか嫌な予感がする。先を急ごう。



 夏の終わりを感じさせる乾いた風に頬を撫でられながら、俺は夕方の通学路をひた走る。

 程なくして学校に到着した俺は、校舎に入る。外と比べると、いつも通りの風景が広がっている。

 家でもそうだったけど、屋内ではこれと言って空間がゆがんでるとかの異常は、見られないようだ。

 俺はリノリウムの床を蹴って、走って図書室へと向かう。たぶん倉敷さんがいるとしたら、図書室の可能性が高いと思ったからだ。

 廊下の窓からは紅い光が差し込んできている。人が誰もおらず、おまけに校舎全体が夕日の光によって紅く染まっている。なんとも不気味な雰囲気だ。

 程なくして図書室に到着した俺は、扉を開けて、


「倉敷さん!」


 と、叫んだ。

 だが、姿かたちも見えない。もちろん返事はない。

 つまり、ここには倉敷さんはいない。

 図書室以外に倉敷さんがいるとしたら……教室だろうか。

 俺はすぐさま踵を返し、10組の教室へと向かう。


 そうして来た10組の教室。俺は祈るような気持ちで扉から中を覗いた。

 ……そこに、倉敷さんはいた。

 窓際最後尾の席。窓が開いていて、風が吹き込んできている。彼女は長い黒髪を揺らしながら、紅蓮に染まる外の景色をひとりきりで見つめていた。


「倉敷さん」


 俺は教室に入り、倉敷さんに声をかける。

 彼女は俺の声に反応して、こちらを振り向いてきてくれた。

 その顔を見る。俺の良く知る倉敷さんのそれだった。

 香川さんのお姉さんである碧さんではない。そこにいたのは、高校1年生の倉敷碧だ。


「美作君。奇遇だね、こんなところで」

「倉敷さんこそ、こんなところでなにしてるんだよ。授業時間はもう終わってるぜ?」

「ん、まあ、ね。なんとなく、この景色を見ていたかったの」


 そう言って倉敷さんは窓の外に広がる紅に、顔を向けた。

 俺も窓際に近づいて、同じように眺めてみた。

 空はどこまでも広がっていて、そして炎のように紅く燃えている。

 

「ねえ、美作君」


 倉敷さんが窓の外へ眼をやったまま、不意に俺に問いかけてきた。


「この空の先には、何があると思う?」


 この空の先にあるもの。

 何ともまあ、ずいぶんと哲学めいた問いだ。


「えーっと、……宇宙とか?」


 よくわからないので一応真面目に答えてみる。

 そんな俺を見て倉敷さんはくすっと笑って、


「そういう変なところで現実的なの、なんだか美作君らしいね。……まあ、普通に考えればそうなんだろうけど。

 私はね、こう思うの。……もしかしたら、なにもないのかもしれない。この世界の、この空の向こうには」


 遠い目をして空を見つめる。一抹の寂寥感を込めて。

 俺はその表情に見覚えがあった。昨日、病室で碧さんが一瞬見せたそれだ。


「なあ、碧さん……」


 あ、しまった。つい呼び間違えた。

 こんな間違いは小学校低学年のとき先生のことをお母さんと呼んで以来だ。

 いや、間違いってほどでもないのかな?


「あ、いや、倉敷さん」

「なに? 急にどうしたの美作君。私のこと、名前で呼ぶなんて」

「あー、……だめか?」

「ううん、そっちのほうが嬉しいかな。どうせなら、さんはつけなくていい。碧でいいよ」


 そう言って倉敷さん……碧は微笑む。


「碧……なんか、この呼び方照れるなあ」

「ねえねえ、私も智也君って呼んでいい?」

「えっ、いや、まあいいけど……」

「智也君」

「あ、ああ」

「ふふっ、なんか、照れるね」


 俺たちは見つめ合い、そして笑いあう。


「で、なに? 私に聞きたいことがあったんでしょ?」

「ん、ああ。……あのさ、碧」


 俺は碧の方へ向き直る。


「俺、昨日君に会ったんだ」

「うん。私が智也君の家まで会いに行った」

「そっちじゃなくて。……現実世界のほうでだよ。病院でだ」


 俺は、そう告げた。

 碧はその言葉を聞いて、少し顔を伏せる。

 風が凪いで音が一瞬消え、教室内に静寂が訪れる。


「……そう。全部、知っちゃたんだ」


 表情ひとつ崩さずに、碧は淡々と語る。やっぱり、彼女はわかっていたのだ。

 ここは現実世界じゃないということも、人が消えたわけではないということも。

 ……そして、自分自身のことも。


「君は、誰なんだ? 高校1年の倉敷碧がいたのは、もう5年も昔の話だ。今現実にいるのは、かつてそうだっただけの、香川碧さんだ」

「そうね。智也君の言う通り、私はその碧じゃない。私もこの世界も、大人になった香川碧が無意識に作り出した幻想に過ぎないよ」


 碧は俺をまっすぐに見据えて、そう告げてくる。

 この世界は、それに倉敷碧は、碧さんが知らない間に作り出した幻想。


「でも……、こんな空虚な世界にどこからともなく現れたのが、智也君だったの」

「…………」


 つまり俺は、この世界に本来あるはずのない存在。いわば異分子だ。

 だからなのかもしれない。この世界での記憶を失ってしまうのは。

 そして例外は、俺が本来あるべき場所にいた場合。


「智也君、初めて私と出会った時のこと覚えてる?」

「あー、えっと。確か、俺が図書室でラノベを読んでいるときに倉敷さんがやってきて……って、あれ? それが初めてだったかな……」


 俺はちょっと考え込む。


「そういえば、倉敷さんが言うには俺は記憶喪失なんだっけ。確か学校で倒れたとか」

「まあ、そうなんだけどね。でも、本当はそうじゃない。私が美作君を初めて見たときのこと、美作君は知らないよ」

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