第5話 約束

 今は正午ちょっと前くらいだろうか。俺たちは図書室で自習している。

 普段の俺は、この時間ではまだ夢の中である。俺は家にいるときは睡眠三昧遊び三昧がデフォルトだからな。

 ところがなんでも倉敷さんは、風紀委員であるらしい。他に生徒がいなかろうが教師がいなかろうが、とりあえず平日の始業時間までには学校に来て、授業時間中は図書室で自習をすることにしているのだとか。

 なんとも律儀なことである。

 ということで、今日は俺もそれに付き合っているわけだ。ちなみに着ているのが制服でなくパジャマであることは、特例で許してもらえた。

 

「それより、美作君は一年一組なんだよね?」


 俺がわけわからん記号の出てくる数学の問題集と格闘していると、机の向かい側で問題集をカリカリと解きながら、倉敷さんが話しかけてきた。

 どうやら私語が厳禁というなわけでもないらしい。そのあたりはくそ真面目というわけでもないようだ。


「ああ、そうだけど……」

「ふぅん……そうなんだ。上ヶ崎高校の生徒ほとんど全員は名前と顔覚えたはずだったんだけど一応……。でも、美作君のことは今日初めて知った」


 倉敷さんはさらっとすごいことを言った。ほとんど全員の名前と顔を覚えている!?

 上ヶ崎高校は生徒数が一学年で五百人は超える、そこそこなマンモス高校だ。

 それにもかかわらず全員の顔と名前を覚えるのか……。

 俺なんてクラスメイトにも名前と顔覚えきれてない奴いるし、違うクラスの奴なんてひとりも知らない。

 記憶力云々以前に、やる気が起きない。

 ……っていうか、全校生徒ほとんど全員を覚えている奴に名前も顔も知られてないなんて、俺どんだけ影薄いの。

 もはや幻の存在と化していることが判明してしまった俺が、ちょっとしょんぼりしていると、


「あ、いや、その……私もさすがに全員覚えられているわけじゃないし、たまたま話す機会もなかっただけかもしれないし、……なんかごめんね……」


 倉敷さんが少し慌ててフォローしてくれた。

 余計に惨めな気持ちになるのは気のせいだろうか。たぶん気のせいだろう。そういうことにしておこう……。


「い、いや、倉敷さんが謝るようなことでもないから……。

 そ、それにしてもさ、なんでまたわざわざ誰もいない学校の図書室に来て勉強するんだ? 勉強なら家でできるんじゃない?」


 なんとなく空気が変になったので、話題を変えようと倉敷さんにそう聞いてみたところ、


「だってほら私、さっきも言ったように風紀委員だから。学校の風紀は率先して守らないと。無断欠席なんて持ってのほか! それに図書室ならいろいろ参考文献とかがあるじゃない」


 ……とのこと。

 他に人間がいないなら、風紀も無断欠席もくそもないとは内心思わないでもないが。いやまあ何というか、個人の意識やら何やらが違うだけでこうまで行動に違いが出てくるものなのか。

 そんなことを思っていると、口をついて出てきた言葉があった。

 

「倉敷さんは、学校が好きなんだな」

「うん、好きよ。いろんなこと学べるし、いろんな人とも関われるし。そういう美作君はどうなの?」

「あー、俺は……」


 問い返されて俺は言葉を濁してしまう。

 俺にとって学校とは行かなければならないので嫌々行くところだし、それは他の奴らもみんな同じだろう。

 好きで学校に行くような奴はこの世には存在しないし、いたら未確認生物よろしくな珍獣だ。

 もちろん友達付き合いもそうだ。誰ひとりとして好き好んでやっているわけではなく、やらなければいけないから皆仕方なくやっているだけだ。

 でなければ、好きでもないのに他人と関わりを持てと言われ続け、内心うんざりしつつ学校へ行き、普通の友達付き合いを頑張ってしようとしていた俺は何なのか。

 それらを人並みにできた試しがない俺は、何なのか。


「……あんまり好きそうって感じじゃないね……ごめん、変なこと聞いちゃった。ちょっと無神経だった」


 俺が黙っていると、倉敷さんは察してくれたらしい。


「……あ、いや、倉敷さんが謝ることじゃ……それに最初に聞いたのは俺の方だし……」


 …………。

 …………。


 それっきり会話が途切れる。

 俺たち以外のいない図書室に、シャーペンをカリカリと走らせていく音と、問題集の紙をぺらぺらとめくる音しか聞こえてこない静かな時間が流れる。


 …………気まずい。


 この沈黙はなんかしゃべらないと、という気分にさせる。

 ひとりでいるときの静寂はあんなにも心地いいのに、いったい何が違うというのだろうか。

 姉ちゃんみたいに向こうからうざいくらいに突っかかってきてくれるほうが、こういうときはむしろ有難く思うところなんだけど。

 い、いや今は自習時間なんだし、別に静かでよくね?


「……ほんとはね、学校に来れば誰かいるんじゃないかって、思ったからなの」


 俺があれこれ考えて日和ってきていると、不意に倉敷さんが口を開いた。


「家にいても誰もいないし、学校に行けばもしかしたら、って」


 …………。

 あー、この流れはまずい。非常にまずい。

 なんか、俺もこれから毎日学校に来ないといけなくなるあれだ。

 ノーと言いまくる日本人を自負している俺だが、さすがにここで素直にノーと言えるほど無神経でもないぞ。


「あ、もう十二時。おなかすいたしお昼休みにしよっか」

「え? まだ三限が終わったところだし、四限は?」

「いいのいいの。他にだれーもいないし」


 そう言って、倉敷さんは机に広げていた問題集や筆記用具を手早く片付けると、椅子から立ち上がり図書室を後にしようとする。

 おい、風紀委員。率先して学校の風紀を守るんじゃなかったのか。


「それと美作君。学校に来るのは私の独りよがりに過ぎないから、嫌なら無理して付き合わなくても全然大丈夫だよ」


 不意にそう言われて、ちょっと面食らった。学校来たくない本心が普通にバレてる。


「え、いや、嫌なんてことは……」

「ふふっ、顔に書いてあるよ?」


 しまった一生の不覚。

 ……しかしまあ、学校に来るのが独りよがり、か。

 普通、学生が学校に来るのは当たり前のことに過ぎないんだけどな。

 俺なんて学校もろくに行かないで遊んでばかりいるクズとかなんとか散々言われたぞ。……主に姉ちゃんに。

 もしかしたら倉敷さんは学校が好きというよりは、ひとりになりたくないだけなのかもしれない。


「倉敷さん!」


 俺は図書室を出ていこうとする倉敷さんの背中に思わず声をかける。

「なに?」と振り返る倉敷さんを見て、俺は一瞬言葉が詰まるが、


「明日も九時にここでいいんだな!?」


 なんて口走ってしまった。

 くっそー、後悔しても知らんぞ不登校の俺。

 倉敷さんはちょっとぽかんとした表情を浮かべて、


「明日は土曜日だから、学校休みだよ?」


 …………。

 あ、そうですね。

 ていうか、今日は金曜日だったのか。


「じゃ、じゃあ、月曜日の九時にここに来ればいいんだな!?」

「……うん、学校ある日は九時に図書室、ね」


 そう言って、倉敷さんは微笑んだ。

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