下
恵が学校から帰った夕方。ひぐらしの鳴き声をききながら料亭に向かう準備をしていた頃、家に来客が来た。母は既に仕込みで向かったため、彼女一人。来客にはそのまま学校の制服姿で出る。
玄関を開けると、そこには軍服を纏った青年が一人居た。年齢は恵と同じくらいだが、帽子と俯いているからか表情が見えない。
「はいはい。どちら様ですか?」
「……こんばんわ。賀田 恵さんですか?」
「は、はい」
彼から弱々しい声で返事が聞こえる。恵に用があるらしい。客間に彼を通し、お茶を出すと恵は正面に座った。
どれくらい経っただろうか。俯いて座ったまま何も話を切り出さない。要件を聞いてもどもるだけで、そもそも彼の名前すら知らない。何故恵の名前を知っていて、何をしに家に来たのかすら分からないのだ。
だが、彼はようやく決心が付いたのだろう。握り込んだ拳を震わせながら、ゆっくりと顔をあげた。
土気色をしていた。きっといつもの調子ではないであろう顔色に、垂れた目尻で顔付きもいい。本来であれば優しげな笑みを浮かべるいい青年であっただろう。しかし、顔色がすこぶる悪いのだ。
そしてゆっくりと口を開いた。
「お、俺は……松風 薫っていいます」
「私は賀田 恵です。松風さん、ご用件は? 何故私の家に?」
「こ、これを渡しに来たんです」
震える手から、見覚えのある封筒が差し出される。ゆっくりと受け取ると、薫は覚悟を決めて話し始めた。何故、恵の家を訪れたのか。何故、彼女のことを知っているのか。
最初は何故知っているのかを話した。彼は軍人で、勇志の同期で友人。仏頂面な彼を引きずり回していた。同期の中でもずば抜けて頭がよく、薫が試験で困った時にはよく助けてくれていたという。
「吹浦から、恵さんのことは聞いていたんです。故郷に幼馴染がいる、って」
「変なこと言ってなかったですか? 勇志君、あんまり悪口とか言わないですけど、私のことをからかう時があったから。身長小さい、成長しているのかって」
「いつも気にしてましたよ。勉強ができないから、俺が見てやんないと赤点取る、って」
「あ、あの野郎~!」
恵はいつものことではあるが、薫の表情を見ていたらそういう態度を取らなくてはならない、そう感じた。
恵の反応を見て少し笑った薫は、話を再開する。
「その手紙は、吹浦と約束していて……それで届けに来たんです」
まだ開けていない恵の手元を見て、薫は額に汗を浮かばせながら話し始める。
「昨日。出撃があったんですよ」
「そう言えば新聞の朝刊にそんなことが書かれていたような……。確か」
「はい。その作戦に俺と吹浦の所属する部隊が参加したんです」
恵は嫌な予感がした。手紙に視線を落とし、表面の宛名を確認する。
よく見ると名前しか書かれていない。彼女の名前だけだ。住所も書かれていなければ、切手もない。消印もない。
恵が顔を上げると、薫は重苦しそうに口を震わせていた。
全てを察した。何故ここに薫が来たのか。何故薫の顔色が悪いのか。名前しか書かれていない手紙を持ってきたのか。
つんと鼻の奥が痛み、もう一度視線を手紙に落とす。鼻はすすらず、目から零れ落ちそうになる雫を必死に我慢する。
「俺たちは作戦に失敗して」
「言ってもいいんですか?」
「構いませんよ。……作戦に失敗して散り散りになって逃げたんです。俺と吹浦は僚機で、同じ方向に飛んでいました」
薫は機密情報であろう作戦でのことを静かに話し始めた。
作戦目標の撃破に失敗して、部隊も壊滅。残存部隊は敵の迎撃部隊に追い回され、弾も精根も尽き果てて次々と撃墜された。薫がなんとか自分の基地まで辿り着くと、気付けは残っていたのはたったの数機。その中に勇志の機体は残っていなかった。
逃げている最中、後ろで何度も爆発があったが、その中に彼の機体もあった。後で確認した被撃墜記録に彼の名前も載っていたため、約束していたことを果たしに来た。
要約すると、そのようなことを言った。無論、恵は軍属ではないため、話の大半は何を言っているのか分からなかった。だが、それでも理解できることがあった。
勇志は戦死した、ということを。
何とか目尻を拭い、顔を上げる。恵の視線の先には、先程よりも少し小さく見える薫の姿。
どのような気持ちで彼女の家に来たかは分からない。だが、覚悟していなかった訳ではないのだろう。膝の上で震えている拳は、きっと彼の心境を現しているに違いない。
受け取った手紙を読み始めることはせず、恵は静かに立ち上がった。机の上に置かれた、冷めたお茶を一息に飲むと薫の方を見る。
「……勇志君との約束を守ってくださって、ありがとうございました」
「いいえ。俺は……」
薫の声が震える。そんな彼に恵は優しく消え入りそうな声で言った。
「いいんです。こうして知れたのなら」
「俺は……」
勢いよく頭を上げた薫の表情は、とても見てられるものじゃなかった。色々な感情をごちゃまぜにしたような、混ざった感情はどれも悪いもののように見えた。
「俺は……! 俺は吹浦があなたのことを想っているのを……!」
「……っ」
「いっつも聞いていたんです! 優しげにこそばゆそうにあなたのことを話していて、それを俺は聞いてたんです!」
薫の目尻から零れ落ちる大粒の涙が、じんわりと彼の軍服を濡らしていく。
「告白も、勇気が出ないって言うあいつの背中を押してやって、あなたからの返事を読んでいたあいつは……!」
恵は普段、勇志と薫がどのような関係性で話しているのかを察した。やはり、手紙に書いたような人がいたのだ。引っ張り回してくれるような友人が。
「あいつは嬉しそうに笑ってたんです! こっちが胸焼けするくらい、幸せそうな雰囲気を振りまいて、あの仏頂面が! だから、だから!」
すっと立ち上がった薫は、帽子が落ちることも構わずに恵に頭を下げた。
「一緒に帰って来れず、申し訳ありませんでした!」
恵は静かに立ち上がると、薫に近づいて肩を叩く。二回叩き、彼の顔をあげさせた。
その優男であろう顔が、ずっと暗いままだ。
「いいんです。本当はよくないですけど、いいんです」
「俺は……」
「勇志君の代わりにあなたが帰って来なければよかった、そんな風には思いません。ですから泣かないでください、謝らないでください。
ですけど、代わりにして欲しいことがあるんです」
「俺でよければ何でも」
恵は薫の顔を拭かせると、準備を始めた。突き出したお茶を片付け、既に用意の終わっている荷物を持ち、薫を連れて家を出る。
※※※
恵が薫を連れてやってきたのは、手伝いをしている料亭だった。開店準備の真っ最中で、あと数分もすれば客を入れるような時間だった。
薫を表で待たせ、裏口から店内に入ると、普段通りを装ってテキパキと準備を進める。祖父母も母もいつも通りだ。
開店準備を終わらせると、通りを歩いている客に紛れていた薫を呼び寄せて店内に引き入れた。
「料亭 あまの……」
「はい。私がお手伝いしているところです。こちらの席でお待ち下さい」
料亭の隅にある、少人数用の席の一番奥に薫を通すと、恵は店の奥へと行ってしまう。
軍服の男が一人、店内にいることを来客は訝しげに思うが、すぐに料理を注文し始めるため、誰も気にすることはない。
十数分もすると、恵が再び姿を表す。お盆を持っており、乗っているものをそれを薫の目の前に出した。
小鉢、お箸、手拭き。小鉢の中身は蓮根のきんぴらだ。
「きんぴら……」
「私、料理下手で、ここでお手伝いしながら練習もしているんです。つい先日、料理長から合格をもらえたのが、この料理なんです」
きんぴらは勇志の好物でもある。
静かに箸を取った薫はきんぴらを一つ摘むと、口に運んだ。軽やかな食感と、甘辛い味付けが口全体に広がる。
「……美味い」
「ありがとうございます」
「恵さんがして欲しいことって、これだったんですか?」
「はい」
お盆を抱えた恵は、静かに答える。
「勇志君の大好物なんです。だから、ずっと練習してました。初めは勇志君に食べてもらいたくて。でも、いいんです」
「……っ」
薫は小鉢を手に取り、次々ときんぴらを口に放り込んだ。口いっぱいに噛み締めながら味わう。
薫は思い出していた。ある昼食の時、勇志がきんぴらを食べていた時のことを。あの時、彼はどのような表情をしていただろうか。いつもの仏頂面だったような気もする。
箸を小鉢の上に置き、薫は手を合わせた。
「ごちそうさま」
「お粗末様です」
立ち上がった薫は恵に再び頭を下げると、静かに料亭から出て行く。誰も薫のことを食い逃げだと騒ぎ立てることはなく、知らないふりをして話しに盛り上がっている。
席に残された小鉢と箸を見つめながら、恵は今も肌身はなさず持っている手紙を服の上から触る。
何が書いているのか分からない手紙。恐らく勇志と薫の約束というのは、お互いにどちらかが帰れなかった時、家族などに軍に黙って手紙を渡すことであろうと分かっていた。
だから、検閲を気にせず書かれた勇志の手紙がある。何を想っていたのかが見て分かるであろう手紙がそこにある。
机の上を片付けて厨房に戻った恵に、恵の母が声をかける。いつもの調子ではあるのだが、何かを見透かした様に言うのだ。
「恵。あなた、今日は帰りなさい」
「お母さん……」
「そんな顔で接客できないでしょう? だから、帰りなさい」
恵が近くにかけられていた鏡を覗き込むと、そこにはいつもの表情はなかった。ただ、今にも消えてしまいそうな少女がいるだけだった。
いつもなら大丈夫、頑張れると言っていたであろう。しかし、今日の恵はその言葉に甘えた。持っていたお盆のものは、決められた場所に置いて料亭を出ることにしたのだ。
※※※
彷徨った。家に帰りはせず、ただ目的もなく街を歩き回った。どれくらい歩いたかは分からない。分からないが、気付いた時には足を止めていた。
鳥川に来ていた。
月明かりが水面を照らし、辺りには川のせせらぎだけが聞こえてくる。
蛍は短命だ。卵から成虫となって宵に光を灯すのは三、四日と言われている。それを短いと取るのは人間の尺度での価値観だ。彼らにとっては、それが適した寿命なのかもしれない。その期間の間、人間たちは蛍狩りを楽しむ。お盆の夜半に誰かと連れ立って見る蛍はなんと美しいものか。
虫は苦手だが、蛍は好きだった。眺めているのが好きで、夏になると来ていた。そして、今年はまだ来ていなかったことを思い出す。
衣擦れは立ち止まるのと同時に聞こえなくなり、背の低い草の上でしゃがみこんだ。つんと鼻の奥が痛み、ここまで握って来た手紙に視線を落とす。
なんの変哲もないただの手紙。無機質な茶色の封筒に、白い便箋。見慣れた文字が綴られている。何度も何度も読み返した。何度も何度も思い馳せた。だがもう、そのような気持ちで読めない。
封筒に染み込んだ雫が文字を滲ませ、それでも拭うことをせずに呆然とするだけだった。
夜の帳が下り、ぽつぽつと蛍が動き始める。一面を埋め尽くす淡い光の中から一つ、恵の近くで八の字を描くように飛び始めた。ふとその夏の夜に舞う蛍は、勇志のように見えたのだ。
「愛してるよ───勇志君」
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