簡素な意匠の便箋に、細く少し丸い見慣れた文字を目で追いながら、何度も反芻する。

脳裏に浮かぶのは、恵が朗らかに笑いながら話しかけてくる映像。だが、この手紙を書いている時はきっと、真剣な表情で筆を取っていたに違いない。何度も誤字をしながら、書き直していただろう。

毎日のように、同じ机に向かい合っていた頃のことを懐かしみながら、彼女の頭の出来がそこまでよくないことを思い出す。

 この手紙を届けてくれたのは、顔馴染みの通信兵だった。昼下がりに勇志の所属する部隊の隊舎に来た彼は、束に纏められた封筒を鞄から出すと、隊員の集まっている机に置いて言ったのだ。


「今日はこれだけ届いていましたよ」


 準備を終えていた勇志たちは束に群がり、自分の宛名が書かれた封筒を探す。いつも恵が使っている封筒を見つけてすぐに取ると、人だかりから抜け出て差出人を確認する。

彼女だ。裏にかかれている差出人が『賀田 恵』となっている。住所も恵の住んでいる家で相違ない。

 特別なものは使っていないと以前手紙で聞いた時に言っていたが、送られてくる他の手紙とは違うので、勇志はすぐに見分けることができた。

淡い桜色の封筒に、小さく山桜の柄が入っている。便箋も同じものだ。

 可愛らしいものだが、それが彼女らしい。受け取り手が男であることは分かっているだろうが、何か考えがあってこの封筒と便箋を選んでいるのだろう。


「いいなぁ、吹浦は」


「何だ、松風」


 勇志の肩に腕を回して絡んできたのは、同じ部隊に所属する同僚の松風 薫だった。お調子者かつ口がうまい奴で、部隊でも上官から気に入られている。

あまり口数の多くない勇志の間を取り持ったり、休日には外へ連れ出したりしてくれる、面倒見のいい一面も持っている男だ。


「俺にもそういう女の子がいればなーって思ってよぉ」


「この前、外出先で入った食堂で女の子引っ掛けただろう? どうなったんだよ」


「あぁ、あの子ねぇ。あの子は駄目だね。男がいるって後で分かったし、金持ちの娘だって言うんだ。

政治家の息子と婚約するとか何とか。あんな場末の食堂には羽を伸ばしに来ていたんだとさ。堅苦しいのが苦手なんだとよ」


 残念そうに溜息を吐きながら、薫は勇志の肩から離れると、近くの椅子に腰掛けた。


「それで、告白したんだろう? 手紙で、だけど」


「……あぁ」


「早く見ちまえよ。もう少ししたら出撃だからなぁ」


 勇志が部屋を見渡すと、全員が同じ服装をしていた。全員が戦闘機の搭乗員で、今は普段の軍装ではなく、専用に配給されている耐加速度衣装を身に纏っている。

 視線を薫の方に戻すと、真剣な表情を勇志に向けていた。巫山戯てる訳ではない。本気で勇志のことを想って言っているのだろう。

しかし、勇志はこの場で見るつもりはなかった。見るのならば、誰にも見られていない場所で見たいという気持ちがあり、そもそも心の準備もできていなかったのだ。

幼馴染への一世一代の告白に、どのような返事が書かれているのか。もし断られていたらどうしよう、なんてことを手紙を基地の郵便窓口に出してから何度も考えた。


「いや、今はいい。それにもうそろそろ出撃の号令が出るだろう?」


「そりゃそうだがなぁ……」


 手紙を上着の内側に隠すのと同時に、隊舎内に聞き慣れた声が響いた。隊長からの号令だ。

 既に着替えを済ませている勇志含めた数十人が一斉に外へと飛び出して行った。


「あのこと、忘れてないだろうな?」


「分かっている。お前の妹に、だろ?」


「あぁ。俺は恵ちゃんとお前の家族に」


 廊下を走りながら、勇志と薫は二人の約束事を確認し合う。

 約束は簡単だ。もしどちらかが戦死した時には、お互いの私物や私物に隠してある手紙を家族や想い人に届けること。




※※※




 勇志は陽炎のように揺れる駐機場を駆け、自分の機体を目指す。

彼の機体は垂直尾翼に『八三-八五六四』と書かれている、使い古された戦闘機だ。彼のような新米搭乗員に割り当てられるものの中では一般的で、『蒼梟改』と呼ばれている機体だ。

 開けられたままになっている風防から身体を滑り込ませ、操縦席に背中を預ける。地上作業員が外から顔を覗き込ませると、勇志では手の届かない安全拘束具の装着を手伝ってくれる。全ての準備が整うと、発進準備を始めた。


《此度の任務は国の趨勢を左右する決戦である》


 無線受信機の向こう側から、基地司令と隊長の激励が聞こえてくる。

 今回の作戦は、今後の戦局を決定する重大なものだ。目前に迫る敵大艦隊を撃滅するため、国内の基地からできるだけの戦力を招集し総攻撃を行う。

一言で言えばそれだけの作戦ではあるのだが、その作戦が国の未来の舵取りを決める。


《これまでに散っていった多くの同胞に報い、必ずやこの大戦に生き残ろうぞ!》


《この作戦に見事勝利し、俺たちの平和を取り戻すために必ずや生きて帰ろう!》


《皆の奮励努力に期待する!》


 聞き飽きた定型文を受け流しながら、頭の中では全く別のことを考える。

 胸の辺りに忍ばせた手紙を早く読みたい。

号令が出れば、空の上にすぐさま飛び立つ。そうすれば、誰の目も気にすることなく手紙の内容に集中できる。


《長機より各機へ。予定通り小牧飛行場を進発し、目標海域到達までの間に各地から招集された部隊と合流する》


 いよいよ号令が出ると、次々と整然と並べられた戦闘機が滑走路から飛び立っていく。

その後を追うように、勇志もゆっくりと発動機の出力を開放した。




※※※




 遮るものの何もない空を、幾多の戦闘機が飛行する。淡灰色をした鋼鉄の鳥たちは、あちこちの巣から轟々と発動機を唸らせて、広大な空へと飛び出していた。

これらの大鳥たちは、一体どれほどの数が戻ってこれるのだろうか。先へ進む彼らは、洋上の城を落とすことができるのだろうか。

 その内の一羽に勇志は混じっていた。皆一様にこれからのことを考えているであろう中、彼の頭には向かう先のことなど一寸たりともなく、ただただ読んでいる手紙にだけ意識を注ぎ込んでいた。

休んでおけという隊長の指示を無視し、文章を目で追いっていた。


私はあなたのことが好きです───。


 本当ならば、勇志が恵に口で伝えたかったことだ。休暇なんてものはなく、ひっきりなしに警報が鳴っては飛び立つ軍人にとっては、心休まる時間はないに等しい。例外に漏れることはなく、彼もまたその一人だった。

だから封筒と便箋を購入し、己が想いを綴った。

逢って話したい。逢って感じたい。それは誰もが思っていることだ。だが、その願いは叶うまでもなく、こうして空へと舞い上がる毎日。

手紙では言えないことばかりで、検閲を通過できるだけのことを書き、基地内の郵便窓口で担当官に渡す。

 しかしながら、送られてくる手紙は本当に自由に書けるのだろう。

彼の知ることのないことばかりが書かれており、また、手紙を書いた彼女の知ることのないものがよく分かる。


───評判の看板娘なだけじゃありませんからね。


 思わず笑みを浮かべる。恵が普段何をしているのかは、以前から送られて来ていた手紙で把握しているものの、前回の返事を読んでむきにでもなったのだろう。

手伝いをしている料亭の厨房に立ってみせる、だなんて大見得切っているが、そこまで料理の腕はよくなかった覚えがある。

 いつぞや学校の昼食に持ってきた弁当が、たまたま恵が自分で用意したものだった。


『どうしたんだよ、その弁当』


『いつもはお母さんが作ってくれるんだけど、今朝はそんな余裕がなかったの。だから私が作るしかなくて。慌てて作ったんだけど、これを持ってくるしかなかったんだ』


『俺のをやるよ』


『え?』


『だからそっちのを食べる。お前がそんなの喰ったら腹壊すだろうからな』


 覗き込んだ弁当箱は、酷い様相を呈していた。焦げた卵焼き、何か判別もつかないその他おかず。お粥になりかけのご飯。

全部食べたら腹を下しかねないと思った勇志は、自分の弁当を分けることを提案した。彼女の弁当は自分が食べてしまえばいい。そう考え、ぼんやりしている彼女から弁当を取り上げて食べ始めた。

 焦げて苦いし、びちゃびちゃでよく分からない。一言で言えば不味いとしか言いようがない味だったが、勇志はどこか嬉しかった。

 あの頃から恵のことは何処か想っていた。だから、失敗したものでも、それが自分のためのものでなくても、彼女の手料理というだけで味などどうでもよかったのだ。食べれることに意味があったからだ。

 学校での出来事を、ふと思い出した。しかしあの時と今とでは違うだろう。彼女は努力家だ。きっと腕はめきめきと上達しているはずだ。

 手伝っているという料亭に誘ってくれている。あの時から、どのように変化しているのか楽しみだ。


───一昔前はそれほど多くもなかったですが、近頃はよく便箋や封筒を見かけますし、販売する種類も増えたように思います。


 本来ならば、こんな古典的な通信手段を使うこともなかった。だが、今は使わざるを得ない状況であるが故に、このようなやり取りをすることもままならない。

使えていたごく当たり前のものでさえも、そのことごとくが使えなくなってしまったからだ。


───お休みの日には、あなた寡黙で大人しいことは知られているでしょうから、きっとお仲間に引き回されているでしょう。


 恵の手紙には勇志のことを心配する言葉が並んでいるが、彼にとっては図星であった。

彼女の想像通り、勇志は薫を始めとした仲間に引き回されている。つい先日も、美味いと評判の食堂に行ったばかりだ。

それ以外では、空いた時間には外で日向ぼっこをしたり、運動をしている。彼だけならば、部屋に籠もって読書に耽っていたであろう時間に、腐らないように外へと連れ出してくれているのだ。

 遠出を許されない勇志たちだからこそ、近場や基地の中で思い思いに時間を過ごしているのだ。


───私もあなたのことが好きです。


 そして目に止まった一文。何度も何度も読み返した箇所。

告白を書いたつもりになっていただけだろうかと心配していたが、ちゃんと勇志の想いは伝わっていた。届いていたのだ。

ただ、一言だけの返事。想いを綴ったであろう箇所だけ、感情に身を任せて筆を走らせたであろう文章に笑みを浮かべながら、擦り切れるほど読み直した。

勘違いじゃない。勘違いされていない。恵もまた、勇志のことを好いてくれていた。

彼女のやりたいことは、彼もやりたいものだった。また学校へ一緒に通いたい。上手くなったであろう料理を振る舞って欲しい。休みの日には一緒に出かけ、可愛い洋服を着た彼女が見たい。温かい笑顔の彼女が見たい。小さな手を握りたい。そんな想いが溢れ出てくる。


───愛している、とあなたに云いたい。


いつも側にいたからこそ、もっと近くで感じていたい。彼女に直接、そう云いたい。

 恵がいつも勇志からの手紙を読んでいるという場所。鳥川は二人の家の近所を流れている川で、数多ある清流の一つでもある。透明な水がさらさらと流れ、水中には魚が力強く泳いでいる川。

夏になれば、日中は子どもたちが川遊びをし、夜になると蛍が観察できる。今では珍しくもなくなった光景ではあるが、二人とも夏の鳥川の蛍は好きだった。

小さい頃は保護者代わりに勇志の兄が付き添ってくれていたが、いつしか二人でよく観に行くようになっていた。

 猛暑という単語を年々聞かなくなったこともあり、夜は汗ばむほど暑くもない。むしろ、夜風に当たっていると身体を冷やしてしまうほどに気温が低くなる。

そんな風に当たっている彼女のことを心配するものの、きっと大丈夫だろう。そう思ってしまった。

小さい頃から身体は丈夫だったのだ。




※※※




《吹浦。手紙読んでるのか?》


「あぁ。というかまた無線通信を私的利用して……隊長に怒られるぞ」


《別に怒られやしないさ。俺以外でも使っている奴はいる》


 突然薫から通信が入り、勇志は無線の送受信を開始する。戦闘中や離着陸の時くらいしか使わないため、少し新鮮に感じた。


「そうか。で、要件は?」


《手紙、読んでいるんだろ? 愛しの恵ちゃんからの奴を》


「読んでいる」


 見透かされるように、何をしていたのかを言い当てられた。それなりに付き合いが長く、僚機でもあるからだろう。

 薫の機体を一度見て、計器盤に視線を落とした。高度、速度、現在地の確認だ。順調に予定航路を進んでいるようだ。


《返事はどうだったよ。告白の。書いてあるんだろう?》


「そうだな。恵も俺のこと好きだ、って」


《お前の仏頂面が崩れているのを直接見れないのは悔しいが、よかったな》


「あぁ」


《写真は見せてもらったが、色白でとても可愛らしい人だったよな。本当におめでとう。俺のことじゃないのに、何だか俺も嬉しいぜ》


「ありがとう。俺も、嬉しいんだ」


───私もあなたのことが好きです。


───愛している、とあなたに云いたい。


 勇志は心の中で書かれていた言葉を反芻する。何度見ても、何度読んでも、間違いなくそう書いてあるのだ。


《うっわ、無線越しでも嬉しいってのが伝わってくるぞ。言葉なんていらねぇ、もう黙ってろ。当てられて火傷しそうだ》


「うるさい」


 笑いながらそう言う薫の声が聞こえてくる。

 今一度読み返しながら、基地に帰った時にどんな返事を書くか考える。きっとまた思った通りに書いてしまうだろうが、少し素直になれないかもしれない。


《長機より各機へ。作戦空域に到達した》


 無線の向こう側から聞こえてくる野太い声で、一気に現実へと引き戻される。いつの間にか黄昏時を通り過ぎ、空にはぽつんと半分ほど欠けた月が浮かび上がっていた。


《これより洋上に展開する敵艦隊への攻撃を開始する。攻撃目標は敵空母だ。既に敵は我々の存在を感知しており、迎撃部隊が上がってきている。群がる小蝿には構わず、目標のみを攻撃しろ》


 巡航飛行を解除し、操縦桿を握り込む。手紙を簡単に折り畳み、仕舞ってあった場所に戻した。


《安全装置、解除》


 計器盤の火器管制装置から、兵装安全装置を解除。両翼や胴体下に取り付けられた兵装の全てが使用可能状態になったことを知らせる表示灯が点灯する。


《攻撃開始!》


 一気に発動機の出力をあげるのと同時に、とてつもない加速度に身体が押さえつけられるが、意識を持っていかれないように必死に抵抗する。

次々と雲海に飛び込んでいく戦闘機に続き、勇志の機体も薄く白い雲に突入した。


「見えた」


 考えることはもうないのかもしれない。勇志は仕舞い込んだ手紙を惜しみながらも、次はいつ読めるかなどと考えながら、大海に浮かう移動要塞にその目を向ける。

 撃ち落とさんが如く怒涛の対空砲火を一身に受けながらも、飛来する迎撃機や対空兵装を振り切りながら、ただ一つのことを想っていた。機内にけたたましく鳴り響く警報音は一切合切無視し、純粋に願う。生きて帰る、と。


「好きだ───恵!」


ただそれだけを伝えるために。

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