彷徨い

ボブ

第1話

 暑さに耐えているかのように震えた陽炎を滲み出すコンクリートの地面。車道に沿って並んでいる木々から聞こえてくるセミの鳴き声、耳障りだと叫んでも止まる気配はしない。そんな真夏のある日、蓮哉れんやは手ぶらで汗を垂らしながら歩いていた。

 今日は夏休みが始まって初日。蓮哉は駅のホームで、もともと自分の女だった明菜あきなが別の男と腕を組んでいるのを見た。

 その女は蓮哉を振る時、勉強が忙しいからと言って立ち去っていった。

 今でもあの瞬間をよく覚えている。

 学校が終わって放課後、家に着いた時に玄関で靴を脱いでいると彼女から電話がかかってきた。

 今までに聞いたことがないくらいの温もりのない声で夜の学校に呼び出された蓮哉は待ち合わせ場所の『北明ほくめい高校』と書かれた校門まで走っていった。女は先に来ていたようで、校門の壁にもたれかかって携帯をいじっている。

 携帯の画面の光で青色に照らされた彼女の顔は無表情で、涙一つ流していない。

 電話の暗い声を聞いて、心配していた蓮哉はそれを見て、泣き崩れるほど嫌なことがあったわけではないようだな。と一安心した。

 未だに蓮哉の存在に気づいていない様子の彼女に、蓮哉は「どうしたの?」と声をかけた。

 こちらを一瞥いちべつした彼女は手に持っていた携帯をポケットに入れると、どこか違う方向を見て目を合わせようとせずに学校でそろえられたローファーをコツコツ鳴らして近寄ってきた。いつもにこやかにしている彼女が無言で近寄ってくる光景に蓮哉は違和感を覚える。


「どうしたの?」


 そう言って蓮哉は、近寄ってきた彼女を両腕で優しく包み込んだ。


「何か嫌な事でもあった?」


 彼女のポニーテールで結われた首元でそう問いかけると、彼女は勢いよく俺の腕を振り払って一歩後ろに下がった。


「え?」


 つい声がこぼれてしまう。


「私、お父さんからもう彼氏は作ったらダメって言われたんだ。ごめんね。この前のテストの点数が悪くてさ」


「じゃあ……」


 じゃあ俺が勉強を教えてあげるよ。と言いかけた蓮哉の口は、彼女の「別れよ、私たち。お互い勉強が忙しいだろうからさ」という言葉を聞いて止まってしまった。

 夜の静かな学校の前、街頭で照らされた彼女の顔は、何も訴えてこない銅像のように冷たく、表情筋に微塵みじんも力が入っていなかった。

 蓮哉は彼女の突き放すような冷たい態度に、一人ぼっちになった孤独の感覚を覚えた。蓮哉の脳裏に約一年間と短い、彼女との幸せな日々が通り過ぎていく。

 二人でよく通った映画館。学校のいつもの帰り道の風景。彼女に食べさせられて初めて気づいたチョコミントの美味しさ。

 蓮哉は何も言い返すことが出来なくなり、突っ立ってしまう。

 白い街灯で照らされた彼女の姿が涙で滲んでいく。頬を伝って落ちる水滴に気が付いた蓮哉は服のそでで涙を拭き取るが、涙の止まる気配はない。

 蓮哉は針で突かれたような心臓の痛みに耐えながら、涙ぐんだ声で「そっか」と頭の中にあった言語をそのままだした。

「ごめんね」心のこもっていない声でそう言い残した彼女は、蓮哉が泣き止むのを待つ様子無く、まるで別人かのように暗闇へと背を向けて去っていった。

 そんな、つい一週間前のくだらない出来事に思い馳せながら適当に足を動かしていた蓮哉はいつの間にか家についていた。

 右ポケットに入った家の鍵を取り出して玄関の扉を開ける。それからサンダルを脱ぎ捨てると居間へと続く廊下を裸足で歩いた。

 八畳ほどの小さな部屋に、場所を取らないように買った小さな机と本棚がある。ここが一人暮らししている蓮哉の家だ。

 締めきっていたカーテンを開けると、ついでに窓を開けて空気を入れ替えることにした。

 五時のチャイム。近所の子供たちが近くの公園で騒いでいる声が窓の外から聞こえてくる。

 蓮哉は冷蔵庫にあったキンキンに冷えたサイダーを片手に、泡を躍らせてコップに注いだ。

 それからベランダへと出ると、誰もいない住宅街の道をボーっと見ながらサイダーの入ったコップに口をつける。

 思っていたよりも冷えていた炭酸が喉の奥を強く刺激して胃の中からじんわりと体を冷やしていく。

 微妙に甘みのあるスッキリとした喉越し。快感だ。タバコや麻薬もこんな感じなのだろうか。

 一杯目を簡単に飲み終えてしまった蓮哉は二杯目をコップに注いだ。

 その時「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。

 蓮哉は注いだままのサイダーをリビングの机に置くと、着慣れた部屋着のまま玄関の扉を開けた。

 扉の反対側にいたのは幼馴染みの「渡良瀬わたらせ 未奈美みなみ」だった。


「あ、生きてた。死んでるのかと思った」


 未奈美はでかでかと黄色い文字で『ビタミンC配合』と書かれてある栄養ドリンクを差し出してきた。それを受け取る蓮哉は「誰が死んでるかよ」と力の抜けきった笑みを溢した。


「普通に喋れるんじゃん。全く電話に出ないから結構心配したんだよ? それで、元カノの事はもう振り切れたの?」


 元カノ。か……。

 蓮哉は自分の気持ちが未だに変わっていないことに呆れた。


「あいつ今日新しい男と腕組んでたわ。本当に最低だよな」


 そういうと未奈美は「プッ」と口先を尖らせて笑った。


「なに? もしかして、勉強が忙しいとか本気で信じてたわけ? あんた小さい頃からだけど本当に頭悪いよね」


 肩をバシバシと加減もせずに叩いてくる。


「うるせぇ、別にそんくらい分かってたし。あと、いてぇから叩くな」


 未奈美は目を細めて「ふーん。そう」とニヤつきながらこちらに目を向けてくる。


「まぁ、生きてたならよかったわ。私今からバイトだから帰るね」


「そうか。これありがとな」


 栄養ドリンクを持ち上げて礼を言うと、未奈美は自慢げな笑顔で「じゃーねー」と言って二階建てのアパートの階段を降りていった。


 そうか、元カノだよな。

 蓮哉は正面に佇んでいる今にも沈みそうな真っ赤な太陽を見つめながら心にその単語をひしひしと響かせた。




 未奈美が家に栄養ドリンクを持ってきた翌日。蓮哉は早朝から電車に乗って遠くに出ていた。無論、行先は決めていない。気分転換の一人旅だ。

 家に引きこもって落ち込んでいく自分の姿を想像した蓮哉は今すぐにでもどこかへ飛び出したくなったのだ。

 とりあえず適当に切符を買って乗った特急列車。名前も聞いたことのない場所へと向かう。

 電車の窓の外は知らない山や知らない田んぼが広がっている。

 のどかでいいところだ。

 椅子のひじ掛けに体重をかけながら窓の外を見ていると、通路側から女性の声が聞こえてきた。


「お飲み物はいかがですか?」


 その女性は沢山の食べ物や飲み物を積んだ台をおしていて、美形の小さな顔には清潔感のある白い化粧がされている。

 列車の中で飲食のサービスを提供してくれるパーサーのようだ。


「あ、ジンジャーエールを一つお願いします」


 喉の乾いていた俺はポケットから財布を取り出して彼女に小銭を手渡すと、ジンジャーエールを受け取った。


「いい旅を~」その女性は作り慣れたような笑顔で横の通路を通過していった。

 そのパーサーを見て、ふと明菜のことが頭に浮かぶ。

 元カノ。あいつのことを忘れるために旅に出たのに、これじゃ外出た意味ねーじゃねーか。

 蓮哉は田んぼの広がる窓へと視線を移した。


 適当に乗り換えを繰り返して2時間ほど電車に揺られた蓮哉は、見知らぬ田舎の無人駅にたどり着いていた。

 何故こんなにも何もない場所に降りたのか。それは何となくここが良いと勘が騒いだからだ。帰る手段など一切考えていない。

 五段ほどの年季の感じるシミだらけのコンクリートの階段を降りると、ただひたすらに緑の田んぼが広がっていた。

 車が通れるほどの立派な道はなく、あぜ道が永遠と続いている。

 何でこんなところに駅なんか作ったんだよ。

 『桃桃たうとう駅』と書かれた駅の看板を睨みつけながらそう思う蓮哉はとりあえずどこまで続くか分からないあぜ道に足を向けた。

 田んぼしか広がっていないせいか、カエルの鳴き声はよく聞こえてくるが、セミの鳴き声は聞こえてこない。

 所々雑草の生えた砂利道じゃりみちを歩きながら思う。

 こんなに沢山の大きな田んぼに一本一本綺麗に規則正しく植えられている稲。誰が植えているんだろう。

 水平線をも覆い隠すように敷き詰められた田んぼの世界。

 そこにポツンと佇んでいる駅と蓮哉。

 その風景を邪魔するものは何一つなく、照りつける太陽と通り過ぎていく雲たちが睨んでいるだけだった。

 水の張っている田んぼに映る太陽と青空を泳ぐ雲。蓮哉にはこの空間にあるもの全てが輝いて見えた。

 空気も綺麗で、何もかも全部忘れることができそうなくらい涼しい風。

 真夏の昼間、地獄のような暑さが襲っているはずの蓮哉の体は軽く、弾んでいて、あぜ道の上を走っていた。

 どこまでも走っていけそうな気すらしてくる。体力はどこかへ飛んで行ってしまったようだ。

 息も切れない。ただ晴れ晴れとしていて涼しくて、気持ちいい。

 そういうふうに何も考えずに前を向いて走り続けていた蓮哉は、ふと後ろを見てあることに気づく。

 徐々に走るペースを落として立ち止まった蓮哉。

 今まで涼しいと感じていたはずの夏風が寒くなるのを感じた。


「……駅がない」


 まだ五百メートルほどしか走っていないはずなのにも関わらず、駅が後ろから消えていた。四方八方、どこを見ても駅はない。

 ただ、不気味に永遠と続くあぜ道と田んぼが広がっているだけ。


 その時、ふと再び明菜のことが頭に浮かんできた。

 何でだ。何で明菜のことを今思い出すんだ。駅が消えたから何なんだ。前に進めばいいじゃないか。ここで戻ってしまったら俺は変われない。いつもあいつのことを頼ってばかりで情けないままだ。

 蓮哉はそう心に言い聞かせるが、足はもともと駅があった方向へと進んでしまう。


 俺は振られたんだ。一人ぼっちになったんだ。どれだけ声をかけてもあいつは振り向いてくれない。

 あいつには別に好きな男がいるんだ。俺のことはもう……。


「いらないんだ」


 強く心に言い聞かせていたあまり、声が漏れた。

 その瞬間、蓮哉は急な耳鳴りと視界が黒く染まっていく現象に襲われた。

 やけに頭がふらついて、力が入らず、通常に立っていることすらも出来なくなった。

 そして蓮哉はとうとう、勢いよく額を地面にぶつけて倒れた。


 蓮哉は額から血を、目からは涙を流し、枯れ果てた喉を振り絞って声を出した。


「明菜」

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彷徨い ボブ @tanigutiakira

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