エピローグ

縁あれば『世界』 -1-

 ツヅリが両親と同居を始めて三日目の朝。


「いーやーだ!」

「離しなさいまし!」


 ツヅリの両親が、初老の男と地味ながらもオリエンタルな色香を纏う美女に拉致されていった。各々の秘書らしい。


「お父様たち、お仕事を放置してここに来ていたみたいなんです」


 ツヅリが連れ去られる二人を見て頬に手を添える。

 毎朝毎朝幼稚園に行くのを嫌がって大泣きする子供を見送る母親のような眼差しだ。


「三階の扉に刻まれていた隠蔽の魔術を覚えていますか?」

「あぁ。今は無効化したんだよな?」

「はい。……それに似た魔術をこの建物にかけて身を潜めていたようなんです、お父様たち」


 そうまでして娘と一緒にいたかったのか。


「少し絞られてくればいいんです。……もう」


 子供のような両親に苦言を呈し、腰に手を当てて嘆息するツヅリ。


「その代わり、仕事を終えて帰ってきたら、せいぜい労ってやるといい」


 俺が言うと、ツヅリはこちらを向いて、そして嬉しそうに頬をほころばせた。


「はい。そうします」


 そして、「うふふ。アサギさん、優しいです」と見当違いなことを言う。

 そうでもしないと駄々をこねて面倒くさそうだからな、あの両親は。


「じゃあ、朝飯の準備でもするか」

「はい」


 新聞を買って帰ってきたらさっきの騒動で、今日は朝からバタバタしている。

 朝飯くらいは落ち着いて食いたいものだ。


「今日は、わたしがおにぎりを作りますね」

「ん……、頼む」

「はい」


 ツヅリはたまにこうして手伝いを申し出るようになっていた。

 俺の手料理を食いたいという思いと、俺に手料理を食べさせたいという思いが拮抗している……らしい。


 ……くっ。可愛過ぎるな、俺の彼女。


 給湯室でいそいそとエプロンを着ける姿も、腕をまくる仕草も、俺が入るのを待っているようにこっちを向く顔も、たまらなく愛おしい。


「アサギさん、中の具は何がいいですか?」

「じゃあ……梅干しで」

「はい。甘いはちみつ漬けのにしますね」


 ツヅリが作る料理は基本的に甘い。

 スープもサツマイモベースが多いし、煮物も甘めになる。


「ツヅリが作る料理は、いつも甘いな」


 そんなことを言うと、濡らした手をぴたりと止め、うっすらと頬を染めながらツヅリが言う。


「それはたぶん、アサギさんと一緒にいるこの時間が、とっても甘いから……だと思います」


 自分で言って照れたらしく、そっぽを向いてもくもくとおにぎりを作り始める。

 抱きしめるぞ、おい。


「あの、アサギさん……」


 おにぎりを握る手を止めて、ツヅリが躊躇うような声音で俺を呼ぶ。


「改めて、確認をというわけでは……ないのですが…………」


 小さく開いた口で大きく息を吸い込み、意を決したように言葉を発する直前で、おにぎりが作りかけだったことに気付いたのだろう。ツヅリは、「すみません、これ先に握っちゃいますね」と一言詫びると、再び作業台に向き直った。


 ツヅリが言いかけた言葉が気になって何も手に付かなくなった俺を置いて、いそいそと、けれど丁寧な手つきでツヅリがおにぎりを作っていく。そして、完成した四つ目のおにぎりを皿の上に並べ終えると、水瓶で手を洗い、濡れた手をタオルでしっかりと拭き取った。


 時間にして数分のことなのに、なんだか果てしなく長い時間のように感じられた。

 心拍数がいや増して、これ以上待たされれば口から心臓が飛び出す勢いだ。


 そんな俺の状況を知ってか知らずか、「お待たせしました」と控えめに言って、俺の目の前に戻ってくるツヅリ。

 見る者すべてに気恥ずかしさを与えそうなほど真っ赤な顔をして、大きな瞳を潤ませて俺を見上げてくる。


「わたしたちは、その……お付き合いを、している……という認識で、間違いない、ですよね?」


 よし、抱きしめよう。

 ここには他に誰もいないし。

 ツヅリは可愛いし。

 抱きしめる以外の選択肢は存在しない。


「あ、あのっ、わたし、こういう経験がありませんので、まだちゃんと理解できているか分からないんですけれど……これはいわゆるひとつのあの、アレ、ですよね? 不純異性交遊……?」

「男女交際っ……と、言いたかったのか?」

「あっ、そ、それです! ……えへへ、ちょっと間違えました」


 とんでもない間違いだ、それは。

 心臓が潰れたかと思った。


「えへへ……男女交際、です、ね?」


 照れ笑いを浮かべるツヅリに一歩迫る。

 俺の軌道を読むように、ツヅリは一歩体を引き、作業台を背に立ち止まる。

 驚いたように丸くしたその瞳を、至近距離からまっすぐ見つめ返す。


 この三日、俺はずっとシャツのボタンを襟まできっちり留めている。

 そうせざるを得ない状況に追いやられている。

 それというのも、すべてツヅリのイタズラのせいだ。


 イタズラっ子には罰が必要だと、俺は思う。

 男女交際を不純異性交遊だなどと言い間違える迂闊っ子にも、な。


「ツヅリ」


 名を呼び、シャツの最上段のボタンを外して首を少し傾けると、ツヅリは俺の首筋を見て「……あっ」っと声を漏らした。


「随分と薄くなったろ?」


 遠慮をしたのか、もともとそれほど強く吸えないのか、ツヅリに付けられたキスマークは随分と薄くなっていた。

 放っておけば明日か明後日には消えてしまうだろう。


「お前はこう言ったよな? 『こうすれば、いい夢が見られる』と」

「えっと……あの…………」


 忙しなく視線が右往左往している。

 キスマークから目を逸らし、見つめ、また逸らして、また見つめる。

 俺と作業台の間に挟まれて身動きが取れないツヅリをさらに追い詰めるように、作業台に両手を突き、ツヅリを腕の中に閉じ込める。


「今朝、少し怖い夢を見たんだ」


 嘘だけれど。


「また、いい夢が見られるように……な?」


 久しぶりの二人きりなのだ。

 これくらいのおねだりは、許されてしかるべきだろう。


「で……では」


 こくりと喉を鳴らし、ツヅリの頭が近付いてくる。

 サクランボのように色付いたツヅリの唇が微かに開かれ、俺の首に触れ――そうになったまさにその瞬間、脳天に鈍痛が降り注いできた。


「不純異性交遊そのものではないですか」


 エスカラーチェが、俺の脳天に鋭いチョップを落としてきやがった。

 いぃ……ったいわ!


「拳骨より痛いぞ、それ……頭蓋骨にヒビが入ったかと思った……っ」

「ご希望とあれば入れますが?」


 いらんわい。


「え、えすか、らーちぇ、さん……あの、い、いつから、見……そこに?」


 いつから見ていたのかという問いは、「ここから見ていましたよ」という返答が来るわけで、それが恥ずかしく感じたのだろう。ツヅリは質問を濁した。


「私は、ボナウスレス、カーディリア両名から『くれぐれも目を離さぬように』と監視役の任を仰せつかっておりますもので」


 つまり、最初から全部見ていたというわけだ。

 まぁ、こいつの目を盗むなんて至難の業、俺らには不可能なんだろうけどな。


「まったく……朝っぱらから何をされているんですか」

「はぅ……、す、すみません……」

「大家さんではなく、あなたに言っているんですよ、サトウ某さん」


 いいじゃねぇかよ。恋人同士なんだし。


「反省しないのでしたら、今後食事の席でボナウスレス、カーディリア両名のイチャイチャを解禁しますよ? 膝に座らせて『あ~ん』くらい平気でしますからね、あのご両人は」

「悪かった。一応は自省を心がける」


 毎日朝から晩までそんなものを見せられては胸が焼けてしまう。


「……一切信用が置けませんが、まぁ、いいでしょう」


 エスカラーチェが嘆息し、作業台に置かれた皿の上からおにぎりを一つ強奪する。


「このおにぎりを食べると、お腹がいっぱいになって、きっと私は二度寝をしてしまうでしょうね」


 そっぽを向いて、そんなことを言う。

 あぁ、そうかい。


「それじゃあ、ツヅリのお手製なんだが、俺のを一つだけ譲ろう。いいか、ツヅリ?」

「え? あ、はい。どうぞ、召し上がってください」

「では、お言葉に甘えます」


 おにぎりを手に、事務所の出口へ向かうエスカラーチェ。


「度が過ぎれば目を覚まさざるを得ませんが、出来れば夕方頃までは寝かせてください。国の重鎮が急に押しかけてきて、心休まる時間が減っていましたので」


 ひらひらと手を振って、エスカラーチェは出て行った。

 嘘吐きまくりだな、あの仮面。

 もう、嘘が吐けないって縛りもなくなってんのかもなぁ。


「えっと……今のは?」


 回りくどいエスカラーチェなりの気遣いをツヅリに説明してやる。


「要するに、両親がいないうちに二人でデートでもしてこいってことだよ」

「なるほど。お目付け役のエスカラーチェさんの目が届かないところへ、夕方頃まで――ということですね?」


 おそらく、夕方にはツヅリの両親が帰ってくるのだろう。

 それまでは、二人きりで過ごさせてくれるそうだ。


「でも、エスカラーチェさんだけ置いてけぼりで、寂しくないでしょうか?」

「なぁに」


 あいつのことだ。


「一緒に遊びたい時は、そうおねだりしてくるさ。分かりにくい、遠回しな言い方でな」

「くすっ。そうですね。では、その時は三人でいっぱい遊びましょうね」


 きっとこれは、エスカラーチェからのご褒美なのだ。

 ツヅリとのディナー以降、ずっとツヅリの両親に振り回されていたしな。


 たまには二人でデートでもしてこいと、あいつなりに気を遣ってくれたのだろう。


「それじゃあ、朝飯を食ったら出掛けるか」

「はい。あ、わたしのおにぎりをはんぶんこしましょうね」


 エスカラーチェに奪われた分を、ツヅリが補填してくれる。

 一個と半分ずつ。俺たちはおにぎりを分け合い、朝飯を並んで食べることにした。






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