好きなものを好きだと言えるわたしに -1-
「これを、受け取ってほしい」
とても澄んだ瞳がわたしを見つめていました。
吸い込まれそうになるほどに綺麗な瞳で、思わず目を逸らしてしまいました。
これ以上は、見られませんでした。
生まれてからこれまでの人生の中で経験したことがないくらいに鼓動が高まっていました。
自分の体なのに、まるで別の生き物のように感じます。
今、わたしの胸の奥で暴れ狂っているのは本当にわたしの心臓なのでしょうか。
なんだかふわふわして、夢を見ているような気分です。
目隠しをして手すりのない橋を渡るように、ゆっくりと、慎重に、差し出された小さな箱を受け取りました。
微かに触れ合った指先が一瞬で熱を帯び、その熱が頬へと伝播します。
腕を引っ込めて、胸の前でそっと蓋を開けると、そこにはピンクゴールドの可愛らしい指輪が入っていました。
「……綺麗…………」
キャンドルの光を反射してきらめく指輪は、まるで現実味がないくらいに美しく、神話の世界へ紛れ込んでしまったような錯覚を覚えました。
神ですら触れることが敵わない至宝を偶然手にした太陽の女神は、あまりに美しい至宝に心を奪われ、沈むことを忘れてこの世に白夜を生み出したと言われています。
その気持ちが、今なら分かる気がします。
うまく言葉に出来ない感情が湧き上がってきて……
ピンクゴールドのリングも、その上で輝く透明な宝石も、たまらなく愛おしくて……
もしかしたら、わたしの人生は、この指輪をいただいたこの瞬間のためだけにあったのではないかと思ってしまうくらいに、満たされて、幸福で、温かくて――嬉しい。愛おしい。
こんなに素敵な指輪、わたしの指に合うでしょうか。
いいえ、この指輪が似合う女性になるんです。
この『世界』でただ一つ。
アサギさんが、わたしへと贈ってくださった指輪なんですから。
この指輪をつける様を想像すると、なんとも面映ゆくて、くすぐったくて、とても幸福で――ふと、こんな当たり前のことを考えてしまいました。
この指輪は、指輪、ですよね?
男性が女性に指輪を贈るという行為には、少々特別な意味が付加されます。
もちろん、そのような意図を含まない場合も往々にして存在しておりますし、いかに指輪が素敵であろうとも贈り主の方が心をこめていないとおっしゃればそれまでなのですが……なの、ですが…………
この指輪は、果たして……
「……こきゅり」と、喉が鳴りました。
まさか、そんなことはないとは思いますが、でも、もしそうであったなら、それはどれほど……
「…………っ!」
口から、変な音が漏れそうになりました。
ぐっと堪えます。
呼吸が難しくなっていって、胸の奥に何かが詰まっているかのように苦しくなっていきます。
でも、どういうわけか、不快感は一切なくて……ただひたすらに…………恥ずかしい、です。
「……ぁ」
口を開くと、意思とは関係なく言葉が漏れていきます。
ダメです。
きちんと考えて、言葉を選びましょう。
変なことを口走って、アサギさんをがっかりさせたくはないですから。
でも、期待と不安が嵐の海のように交互に押し寄せてきて、気持ちばかりが急いて脳は空回っています。
結局、よい言葉も、気の利いたセリフも思い浮かばず、口を開いた拍子に言葉がこぼれ落ちていってしまいました。
「あの、これ……」
言葉はそこで途切れました。
これはもしかして――と、そこまで踏み込む勇気は出ませんでした。
先ほどまでは期待も負けじと湧き上がっていたのに、今は不安ばかりが押し寄せてきます。
「やっぱりいいです」と言って耳を塞ぎたい衝動が襲ってきます。
もう、ほんの数瞬後には逃げ出してしまいそうなわたしの耳に、心に、アサギさんの声が届きました。
「婚約指輪の予約指輪――だと思ってくれ」
その言葉は、すっと静かに胸の奥へと広がっていきました。
あれほどせめぎ合っていた感情が、荒れ狂っていた心が、全速力で空回っていた脳が、静かに凪いでアサギさんの声に酔いしれていました。
優しい微笑みに見惚れていました。
首回りが熱を帯び、頬が上気して、耳の先まで熱くなり、涙が込み上げてきました。
今度ばかりは堪えきれないかもしれません。
声を上げて泣いてしまうかもしれません。
うれしい。
うれしい、うれしい……
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しいっ。
ぎゅっと握った小箱は、確かな存在感を指先に伝えてくれます。
この手の中に、あるんです。
アサギさんからの、特別な贈り物が。
この指輪には、アサギさんの想いがたくさんこめられていて……それがはっきりと分かるから、しっかりと胸の奥まで伝わってくるから――
たった一つの感情を除いて、すべての感情がどこかへ消え去ってしまいました。
この気持ちを言葉にするには、もう少し時間がかかります。
とても大切な感情ですから。
少しだけ……ほんの少しだけ待ってください……
きちんと言葉にして伝えます。
もらうばかりで、うまく受け止めることも、返すことも出来なかったこの想いを、この言葉を。
今なら、きちんと受け止められる気がするんです。
そして、ちゃんと返せると思うんです。
あふれるくらいの愛情というものを。
アサギさん。
聞いてください。
アサギさん。
わたしは。
わたしはあなたが――
「ツヅリ」
名を呼ばれ、心臓が跳ねました。
思考は止まり、こちらを見つめる綺麗な瞳からはもはや目を離すことすら出来なくなり、わたしはただこの次にもたらされる言葉を待つだけでした。
ゆったりと流れていく時間の中で、揺らめく炎に照らされたアサギさんの唇が、天界の鐘の音のように甘美な響きを伴ってわたしに言葉を届けてくれました。
「俺は、ツヅリが好きだ」
世界が色めき、輝き出しました。
今目の前にあるこの風景を、わたしは一生忘れないでしょう。
世界はこんなにも鮮やかで、温かく、幸福に満ちていたのだと、今知りました。
頬を温かい雫が幾筋も通り、滑り落ちていきます。
次から次へと涙がこぼれ落ちていきます。
「……っ……ぅう……っ…………」
伝えたい想いはいくらでもあるのに、言葉よりも先に涙があふれ出して何も言えません。
悲しくなんてないのに、それどころか、わたしが生きたすべての人生の中で今この瞬間が一番嬉しいと確信を持って言えるのに。
「アサ……ギさ……んっ…………アサギ……さぁん…………っ…………」
困りました、アサギさん。
涙が止まらないんです。
自分でも分からないんです。
怖いです。
不安です。
苦しいです。
嬉しいです。
幸せです。
あなたが……あなたのことが――
「驚かせたな」
優しく言って、アサギさんが席を立ちました。
テーブル伝いに、こちらへ歩いてきます。
まだ、準備が足りません。
わたしはまだ、あなたに伝える言葉を用意できていません。
もどかしいです。
もっと強く……
わたしは、もっと強くなりたい。
好きなものを好きだと言えるわたしに――わたしは、なりたいです。
その勇気をください。
ほんの少しでいいんです。
きっかけをくだされば、わたしはきっと――
アサギさんがわたしの目の前まで来て、シルクのハンカチで一度だけ目尻を優しく押さえてくれました。
頬に触れられどきっと心臓が跳ね、その後手渡されたハンカチをぎゅっと握ってしまいました。
汚してしまうと思いつつ、御厚意に甘えて目頭を押さえます。
アサギさんの匂いがして、少しだけ、ほんの少しだけ落ち着きました。
わたしは立ち上がり、アサギさんと向かい合って、左手を差し出しました。
持てる限りの勇気を振り絞りました。
それを察して、アサギさんが指輪をわたしの指へと嵌めてくれました。
左手の、薬指に。
まるで、生まれた時からこの場所にあったかのようにぴったりでした。
「ツヅリ」
わたしの名を呼ぶアサギさんの声に、今度はとても落ち着きました。
満たされる。そんな言葉がぴったりでした。
「これからも、ずっと俺のそばにいてほしい」
それは、わたしがずっと望んでいたこと。
願ってはいけないと思いながらも、ずっと望み続けたことでした。
そして。
「この先の人生を、俺と一緒に生きてくれ」
それは、思ってもいなかった申し出で。
「アサギさん」
勇気を、もらえました。
今なら言えます。
大きくなり過ぎて、喉の奥に引っかかってしまっていた想いをすべて。
涙に胸が震えます。
けれど、この言葉だけはしっかりと伝えたいから。
ちゃんと、聞いていただきたいから。
ゆっくりと息を吸って、震える胸を押さえて、あとからあとから湧き上がってくるあふれる想いを余すことなくすべて詰め込んで、アサギさんへ、言葉を届けます。
アサギさん。
わたしは、あなたのことが――
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