エゴと嫉妬 -1-

 部屋を移し、小さな書斎のような場所へやって来た。


 まずはハルス司祭の話を聞くことになった。

 ザックハリー司祭が、あの荒れた部屋を片付けると自ら申し出たからだ。

 どうにも、人を動かすのはザックハリー司祭の方が得意なようで、ハルス司祭もその決定には特に異論を挟まなかった。


「先ほどはすまなかったな。狭い部屋だが、どうか寛いでほしい」


 この書斎はハルス司祭の部屋のようで簡易的な折りたたみのベッドが部屋の隅に片付けられていた。

 書物は多いが余分なものはない。こざっぱりとした、かなりシンプルな部屋だ。

 ちょっと殺風景過ぎる気もしなくはないけれど。


 ハルス司祭は、俺たちに椅子を勧めた後、自席に腰を掛け、デスクに肘を突いて大きなため息を吐いた。


「……いや、すまない。どうにも、ヤツと話をするといつも拗れてしまってね……諸君らにも、迷惑をかけてしまったね」

「いえ」


 その憔悴振りに、かける言葉に迷ってしまった。

 先ほど大剣を振り下ろして瞳をぎらつかせていた人と同一人物とはとても思えない。


「いつも、あんな感じなんですか?」

「はは……まったく、お恥ずかしい限りだ」


 頬杖を突き、視線を右下へ落としてハルス司祭は自虐的な笑みを浮かべた。


「決して憎んでいるわけではないのだ。なのに、ヤツと一緒にいると、いつも……自分が自分ではなくなってしまったように……ぶつかってしまうのだ」


 テーブルに両肘を突いたまま手を組み、目元を覆い隠す。

 微かに見える口元を歪な笑みの形に曲げるハルス司祭は、なんだか涙を我慢しているように見えた。


「どうして、あんなに刺々してしまうのか、自分でも理解できないのだ。……昔は、そんなことはなかったはずなのに」

「ハルス司祭は、記憶があるのですか? かつて、ザックハリー司祭と共に過ごした、仲のよかった時代の記憶が?」


 彼女の言葉には、ある種の確信のようなものを感じた。

 もしかしたら、ザックハリー司祭が忘れているから、自分も忘れているというフリをしているだけかもしれない。

 ……と、思ったのだが。そうではないらしい。


「いや、本当に思い出せないのだ。ただ、そうであったという確信だけが胸の奥に残っている……私の隣には、いつもザックハリーが存在していたという確信が」


 それほどまでに強い絆で結ばれていた二人が、今は顔を合わせる度に口論を繰り返している。

 その記憶というものを取り戻さなければ、この二人の関係は修復できないのかもしれない。


「あの……変なことをお伺いするかもしれませんが……」


 ツヅリが遠慮がちに、少々緊張しつつ、ハルス司祭に尋ねる。


「お二人は、之人神ではありませんか?」


 之人神――元の世界で神と呼ばれた者。

 ツヅリは、この二人がそうなのではないかと思っているのか?


「聞いた話になるのですが、神が人間へ至る際、神としての記憶をあえて封印することがあるのだそうです。あまりに変わってしまったおのれの立場に苦悩せず済むように。要らぬ野心に駆られぬようにと」


 それまで、絶対的な存在であった神が、ただの人になるのだ。

 もしかしたらそれは、死ぬよりも耐えがたい苦痛を伴うのかもしれない。

 だから、自ら記憶に封印を……まぁ、分からなくはない。


 それにしても、「人に至る」とは……

 とことんまで特別扱いなんだな、之人神は。「人に成り下がった」や「成り果てた」とは言えないわけだ。


「もしかしたら、お二人は何か決定的なことがあって、お互いに記憶を封じられたのではないでしょうか?」


 もし、ツヅリの憶測が正しいのだと仮定すれば、次のような推論が成り立つ。


「なんらかの理由によって離縁するような状況になり、それを耐えがたい苦痛だと感じたあなた方二人は互いの記憶を封印した。その結果、仲違いした当時の記憶がすっぽり抜け落ちてしまったが、憎み合っていた記憶は体に残っており、それゆえに顔を合わせるとついついいがみ合ってしまう――という可能性も……」

「それはないな」


 だが、その意見はあっさりと否定される。

 記憶がないはずのハルス司祭が、それはないと明言する。

 記憶はなくとも、それだけははっきりと分かると。


「私たちは互いを尊重し、そして認め合っていた。ザックハリーが出かけていく後ろ姿を私は何度となく見送り、ザックハリーもまた、私のことを何度も出迎えてくれた」


 同じ場所にいて、それぞれの仕事を全うし、互いに成果を上げて、それを心から称賛し合っていた。

 そんな関係だったと、ハルス司祭は言う。


「ザックハリーは、求められた成果を確実に上げるし、私も自分の役割を全うしていた。他の何者にも侵せない、そんな存在だったのだ、私とヤツは」


 その感覚ははっきりと刻み込まれているのに、そこがどこだったのか、自分たちが何をしていたのか、それが思い出せないという。

 なんとも厄介な記憶喪失だ。

 いっそのこと、何もかもを忘れてしまっていれば、こんなに悩むことはなかったのかもしれないというのに。


「本当にすまない。私も、なんとか過去を思い出そうと努力はしているのだが、ままならぬのだ。それが焦りとなって、またヤツに八つ当たりを……そもそも、なぜヤツはいつもあんなにへらへらしていられるのだ!? とても大切な記憶を思い出せないでいるというのに! ……私たちが同じ気持ちで、互いを尊重し、尊敬し合い、離れる時間が惜しいとすら思っていたあの大切な時間を……」


 頭を抱えるハルス司祭が、不意に口元を緩めた。


「……そういえば、離れがたくて、ほんの少しだけヤツの仕事に手を出したことがあったっけな……いつも以上に成果が上がったと周りの者が認めてくれたのを覚えている。普段の私とは、真逆の成果が得られて、みんな驚いていたな」

「思い出したんですか?」

「…………いや。そんな気がするだけだ」


 結局、重要な記憶は何一つ思い出せないらしい。

 けれど、『真逆の成果』ってなんだ?

 建築家に解体を頼んだら思いの外うまくいった、みたいなことか?

 ハルス司祭がザックハリー司祭を手伝うと真逆の成果が現れる……? そんな仕事をしていたのか?


「お二人は、同じ仕事をされていたんですか?」

「どうだろうか……けれど、同じ場所にいた。呼ばれるまで待機していて……いろいろな者たちに出会った。よく顔を合わせる者もいれば、一度きりだった者もいた。一人で仕事をすることもあれば、大勢の者と協力をすることもあった。ザックハリーと一緒の時は、大抵ヤツが先に行って、帰ってくるなり『あとはよろしく』と……ヤツは我が強くて誰も彼もを自分の色に染めてしまう。だから私が場を律し、個々の長所を引き伸ばしてやっていた…………と、これは今の私たちの関係か」


 ザックハリー司祭は場をまとめるのがうまく、人を操ることに長けている。

 だがその一方で、自分の色が強く出てしまっているのだそうだ。

 カリスマ性のあるワンマン経営者のような感じだろうか。


 それで、ザックハリー司祭の色に染まりきってしまった者たちの個性を引き出し、個々の存在感を確立させているのがハルス司祭なのだとか。


 もし、ハルス司祭がいなければ、教会はザックハリー司祭によるザックハリー司祭のための教会となり、個性と多様性が埋没した組織になってしまうだろう。

 逆にザックハリー司祭がいなければ、それぞれの個性や才能を伸ばした者たちが多く誕生するが、まとまりのない組織になってしまうだろう。

 ――というのが、ハルス司祭の分析だった。


 この二人がいて、それぞれの役職を全うしているから、教会はここまで大きく成長し、現在も平穏を保てているのだと。

 ただ、その先導者二人がいがみ合っているのでは、組織としては憂慮すべき事態だと判断されてしまうだろうな。


「正直、お二人の諍いを止めるのは難しいと思います」


 俺は、今現在心にある思いを、率直に伝える。

 ハルス司祭は本当に悩み、本当に苦悩している。そして、その気持ちを正直に話してくれている。

 だからこそ、こちらも正直に話すべきだと思った。


「お二人の記憶が戻らない限り、きっと根底にある問題は解決しないと、そう思います」

「……そうか」


 それは、おそらくこの二人にも分かっていることなのだろう。

 だからこそ、ハルス司祭は懸命に過去を思い出そうとしているのだ。

 その真剣さは、痛いほどに伝わってくる。


「本当に、愛していらっしゃるんですね、ハルス司祭は。ザックハリー司祭のことを」


 俺の言葉に、ハルス司祭は目を丸くしたが、数秒の後に口元を緩ませ、にこりと笑って首肯した。


「あぁ。とても大切な、唯一無二の存在だと思っている」


 その微笑みはとても穏やかで、彼女が離縁を望んでいないことはよく分かった。


 なんとか出来るものならなんとかしてやりたい。

 そう思えるほどには、心に来るものがあった。



 これ以上話を聞いても、今日のところは進展しないだろうと判断して、俺たちはハルス司祭の部屋を後にした。

 後日、普段の仕事ぶりや生活を見せてもらえるよう約束を取り付けて。

 記憶がなくとも心に刻まれている感情があるのなら、普段の生活の中に何かヒントが隠されているかもしれない。

 そんなささやかな可能性に縋るしか、今の俺には解決策が見出せなかった。






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