概念とキスマーク -1-
「失礼いたします」
朝、事務所の薪ストーブに当たって暖を取っていると、エスカラーチェがツカツカと俺の前まで歩いてきて、蹴りを入れてきた。
「……なにしやがる?」
「それはこちらのセリフです。サトウ某さん、あなたは何をしたんですか?」
「は?」
「先ほど、大家さんが私の家までやって来て――『キスマークってなんですか?』と」
「ごふっ!」
なんか、変な物が気管に詰まった。
「いや、違う違う! デニスさん夫婦の一件で出てきた言葉なんだ。ほら、お前もいただろう、トカゲのしっぽ亭でさ、結局
「笑い事ではありませんよ。……どう説明したものか、さんざん頭を悩ませました」
そういえば、俺がツヅリに聞かれた時に「エスカラーチェに聞け」って言ったんだっけな。
デニスさん一家の一件から、そろそろ一週間が経とうとしている。
結構悩んで聞きに行ったんだな、ツヅリのヤツ。もしかしたら、自分で調べようとしていたのかもしれない。
「はぁ……」
エスカラーチェが呆れたようなため息を漏らす。
「卑猥な話であることは、なんとなく察しておられたご様子でしたよ」
「そ、そうか……」
なんだろう、この話聞くの、なんか、照れるな。
「それでも、気になってしまわれたのでしょうね……『今日の夕方、ようやくアサギさんの部屋の薪ストーブが届くんです。あ、そうでした、薪ストーブと言えば……あの、キ、キスマークって、どういったものなのでしょうか?』……と」
薪ストーブが、どこにもかかってない……
誤魔化し方が下手過ぎるだろう、ツヅリ。
「薪ストーブでキスマークを思い出すなんて、どのような性癖を持っている設定なのかと頭が痛くなりました」
「まぁ、考察するに、薪ストーブは俺の部屋に設置するもので、俺を想起して、そういえばキスマークの話をしていたなと連想した……って、設定なんじゃないか?」
間をすっ飛ばしてしまってる時点で、誤魔化しは失敗だけどな。
「あなたからキスマークを連想されたと、そういうわけですか……卑猥の権化め」
「俺はなんもしてねぇよ!」
「当然です! させませんとも!」
エスカラーチェがくわっと目を見開く。……いや、仮面なので実際には見開いてはいないのだが、そんな雰囲気というか、見開いたように見えたのだ。
こいつとの付き合いが長くなるにつれ、この無表情の仮面が表情豊かに見えてくる。さすが、一般人が二年は遊んで暮らせるくらいのぶっ飛んだ値段のする魔導具だな。製作者の高名な魔導具技師本人はそんな機能を備え付けた覚えはないかもしれんが。
「まったく。あなたの発想、言動、精神構造は時にこちらの範疇の埒外へぶっ飛んでいってしまいますね」
「そんな自覚はないのだが?」
「自覚がないから困っているのです」
エスカラーチェは分かりやすくため息を吐くと、眉間を揉んだ。
……仮面の眉間を揉んでも意味ないと思うのだが?
「たまに、あなたは世の思春期男子が生み出した『むっつりの権化』なのではないかと思える時があります」
「失敬極まりないな」
誰がむっつりの権化だ。
「サトウ某さんは『概念の人格化』というものをご存じですか?」
「ご存じではないな。初耳だ」
概念というのは、あるものや事柄に対し、多くの者が連想したり認識していたりすることを指す言葉で……乱暴にまとめてしまえば、『猫は可愛い』という共通認識を基にして『愛らしく、人懐っこくて、警戒心が強く、わがままで、ニャーと鳴く』のが猫の概念と言える。……言えなくもない。ない、か? 説明が難しい。
要するに『猫とはそういうものだ』の『そういう』の部分が概念に当たる。……随分乱暴な説明だけどな。
「強い概念は時に、魂を得て人と成り得るものなのです」
「概念が人に?」
ちょっとよく分からない話だ。
付喪神みたいなものだろうか。昔話によく出てくるような、古くなった草履や提灯が妖怪に変化するとかそういった類いの。
「よくあるパターンがいくつかあるのですが……たとえば、そうですね、『恐怖』が魂を持つという事例はよく報告されているようです」
「恐怖が魂を……どういうことだ?」
「暗い夜道を歩いていると、後ろから誰かがついてきているような気がする……振り返ってもいない…………なんだ気のせいか……ほっとして振り返ると目の前に『バーン!』」
「――っ!?」
急にデカい声を出されて、思わず肩が跳ねた。
……コノヤロウ。
「……と、そんな噂が広がると、怖いもの見たさの無鉄砲たちがその場所にやって来るようになります。当然、夜道への恐怖心からおかしな妄想をしただけですのでそこには何もいません。いるはずがないのです。……なのに、いつの頃からか、『本当にいた』『私も見た』という噂が聞かれるようになり、目撃者は日増しに増えていくのです。……それはなぜか?」
「『何かいるかも』って恐怖が魂を得て実体化したってのか?」
「あくまで仮定の話ですが、そういう事例は確かに存在します。『恐怖』という概念が、その場所に集まり、凝縮され、魂を得たのでしょう」
そういえば、学生の頃にオカルト系に嵌っていた女子生徒からそんな話を聞いた記憶があるな。
「怪談は、今この瞬間も生まれているのよ」とかなんとか。
日本の古い文献には、『鬼とは、人の内に潜む憎悪と恐怖が具現化して生まれたものである』と記載されているものもあるとか。
「そういう話なら聞いたことがあるな」
「あるんじゃないですか!? じゃあなぜ話をさせたのですか? なんだったのですか、この無駄な時間は?」
「い、いや、いまいちピンと来てなかったんだよ。悪かったって、おかげで理解が及んだ」
分かりやすくへそを曲げるエスカラーチェは珍しく、不覚にも少しだけ可愛らしく見えてしまった。
こいつも、こんな風に感情を乱すことがあるんだな。
……あぁ、いや。
屋上で野菜入りの木箱を投げつけられた時も結構感情を乱していたか。
「あなたといると、自分を見失いそうになります」
「俺のせいにすんなよ」
「あなたが来るまでは、平穏で静かな毎日だったのですよ」
「そりゃ、悪ぅござんしたね」
俺としては、お前が来る度に騒ぎが起こっているような気がしているんだがな、ここ最近は。
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