温もりを知ってしまったから -1-

 事務所に着いたのは、ちょうど太陽が姿を隠した頃合いでした。

 気温が下がり、アサギさんが肩をすくめます。


「寒いですか?」

「あぁ……室内でも寒いな」

「では、薪ストーブを出しましょうか」

「あるのか?」

「えぇ。寒くなる季節には、相談者様のために事務所を温めていますから」


 わたしは体温が高いので割と平気なのですが、他の方はそうではないようですので。


「では、取ってきますね」

「重くないか?」


 三階へ向かおうとしたわたしに声をかけ、少し心配そうな表情を見せるアサギさん。

 ですが、三階は立ち入り禁止なので手伝ってもらうわけにはいきません。


「平気ですよ。小さいストーブですから」


 わたしでも持ち運べます。


「じゃあ、踊り場に出しておいてくれ、あとで俺が運ぶ」

「いえ、本当に……」

「階段は危ないんだよ。経験者の言うことは聞いておけ」


 そういえば、以前アサギさんは野菜の入った木箱を抱えたまま、外階段を落ちたことがありましたっけ。

 だとしたら、アサギさんに持たせる方が危ないような気がしないでもないのですが……

 それでも、それがアサギさんの優しさであることは分かります。

 折角のご厚意を無駄にするようなことはしたくありません。


「では、準備が出来たらお呼びしますね」

「おう」


 寒そうに手をこすり合わせるアサギさんに礼をして、わたしは事務所を出ようと振り返ります。

 その時。


「なぁ、ツヅリ」

「はい?」


 アサギさんに呼ばれ振り返ると、なんともばつが悪そうに、言いにくそうに、視線を右側に逸らしながら、アサギさんが言いました。


「その……大丈夫か?」

「……ストーブ、ですか?」

「あぁ、いや、ほら……なんか、一人になるのを嫌がっていたような気がしたから。今日一日」


 はっと、息をのみました。

 すっかりと見透かされていました。


 あれはただ、なんとなく不安になっていただけなんです。

 新聞屋さんのオーナーさんの話を聞いて。


 二十年連れ添った夫婦の絆は、目に見える程度のもので揺らぎはしない。


 裏を返せば、目に見えない不安は、二十年連れ添った絆ですら揺るがしてしまうのではないかと、そう思えたから。


 そして、デニスさんの話を聞き、一層強く思ってしまったのです。

 目に見えないところでの行動は相手を不安にし、追い詰め、関係を崩してしまいかねないと。

 結果的に勘違いだったわけですけれど、勘違いでさえ離婚を考えてしまうほどに不安になってしまうのだと思うと、怖くなってしまったのです。


 わたしは、アサギさんに話していないことが、あまりにも多過ぎますので。


 もし、ほんの一瞬目を離した隙にアサギさんがいなくなってしまったら――

 そう考えると、怖くなってしまったんです。


 けれど。


「もう平気です」


 目に見えない不安よりも、目の前で言ってくださったアサギさんの言葉を、わたしは信じます。


『俺たち二人が、協力して頑張ればな』


 二人で協力して、頑張ろうと。

 アサギさんが言ってくださったんです。

 こんなに近くで。



 あの時感じた温かさは、どんなものよりも信用できる。

 わたしは、そう思ったんです。


 だから、もう平気です。


「あぁ、でもストーブは一つしかないんです」

「そうなのか。俺の部屋にも欲しいところだが……」

「では、明日。買いに行きませんか?」

「そうだな。付き合ってくれるか?」

「もちろんです」


 うふふ。

 明日の予定が出来ました。

 今から楽しみです。


「明日はちゃんと上着を着てこいよ。これからどんどん寒くなってくるだろうから」

「はい。そうします」


 本当に、いつもは平気なんですよ。

 けれど今日はなんだか……そう、今朝。

 今朝、アサギさんが上着を貸してくださって、アサギさんの匂いと体温に包まれているかのように温かくて、それがなんとも言えず心地よくて……だから、二度目に外出した時にくしゃみなんかをしてしまったんだと思うんです。


 いつもは平気なのに。

 今日に限って。


 きっと、わたしは無意識のうちに甘えていたのでしょうね。

 あの心地よい感覚をもう一度味わいたいと……


 申し訳ないことをしてしまいました。

 わたしのわがままのせいで、アサギさんに寒い思いを。アサギさんは、寒いのが苦手なのに。


「明日は、もこもこの上着を着ていきますね」

「もこもこか……」


 もこもこという言葉から何かを連想したのか、アサギさんがアゴに手を当てて視線を右上に向けました。

 すごく真剣な眼です。


「もこもこはお好きですか?」

「ごほっ!」


 突然アサギさんが咽ました。


「……突然、なんだ?」


 突然だったのはアサギさんだと思うのですが……?


「ま、まぁ……たぶん、似合うと思うぞ」

「……へ?」

「…………」

「…………」

「…………なんでもない」


 くるっと背を向けてしまわれました。

 似合う? もこもこの上着が、ということでしょうか。

 好きかどうかを聞いたのですが、似合うかどうかについて回答を得ました。

 質問の仕方がまずかったのでしょうか?

 アサギさんが好きなら、これからはもこもこした服を多めに着ようと思っていたのですが……目論見が外れてしまいました。


 わたしに似合うなら好きに着ればいい、ということでしょうか?

 わたしとしましては、似合うかどうか以前に、アサギさんに楽しんでいただける格好をしたいのですが……

 そういう観点で見れば、もこもこの服はあまり好ましくないかもしれません。


「アサギさんは、もこもこよりも揺れる方がお好きですもんね」

「ごーっほごほげふっ!」


 盛大に咽た後、なんだかものすごく睨まれました。

 ……あ、そうでした。アサギさんはご自身のそういう子供っぽいところを気にしてらっしゃるんでした。これは失言ですね。


「大丈夫です。誰にも言いませんから」

「……いや、そういうことじゃなくてだな……」


 頭が痛いのか、こめかみを押さえてぐりぐりされています。

 ……風邪、でしょうか? わたしが上着を借りたばっかりに。


「あの、アサギさん。もしかして……」

「違う」


 早いです!?

 まだ何も言っていませんのに。


「まぁ、もこもこでもなんでもいいから、温かい格好をしろ」

「はい。そうします」


 上着の話が終わったので、改めて薪ストーブを取りに三階へ向かいます。

 事務所を出てドアを閉めると、なんだかひんやりとした空気を感じました。

 寒さが苦手なアサギさんには、つらい冷え込みかもしれません。

 薪ストーブで温まっていただかないと。


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