一世一代の…… -5-

 その後、あまりにもぎこちなく動物を抱っこするカサネさんに笑ってしまったり、今度は逆にカサネさんに執心するインコのような鳥に耳を齧られ悲鳴を上げたり、リクガメを二周りほど大きくしたようなカメっぽい動物にエサをあげてその咀嚼力の強さに驚愕したりしているうちに空はすっかり暗くなっていた。


「間もなく閉園時間となります。どなた様も、足元にお気を付けてお帰りください」


 あちらこちらで係員さんが声をかけて回っている。館内放送がないから大変そうだ。

 それからしばらくして、街で聞こえる時刻を示す鐘とは異なる音色の鐘が鳴り響く。

 閉園時間を知らせる鐘で、街の鐘と混同しないように音色を変えてあるらしい。この音はここの動物園独自のもので、他の場所ではその場所オリジナルの鐘の音が聞けるらしい。


 それなら、鐘の音巡りをしても楽しいかもしれない。


 もっと、いろんなところへ行ってみたい。



 出来ることなら、カサネさんと一緒に……



「トラキチさん」


 動物園のゲートをくぐったところで、カサネさんが立ち止まった。

 優雅にドレスを翻し、美しい姿勢で僕の前に立つ。


「今日はとても楽しかったです」


 そして、天使のような優しい笑みを浮かべる。

 あぁ、やっぱり、カサネさんは本物の天使なんだな。素直にそう思える笑顔だった。


「昨日急に仕事を押しつけられた時は、どうせまたろくでもないことに巻き込むつもりなのだろうとあの小さい所長の身長が毎秒1センチずつ縮めばいいのにと思わずにはいられなかったのですが――」


 ……うん。若干腹が黒いよ、天使さん。


「――けれど、今は感謝しています。こんなに楽しい時間を与えてくれて」


 カサネさんがそう思ってくれたなら、よかった。


「ただ、そのせいで少々離れがたくなってしまったのは困りものですね」


 素敵な職場でした――と、カサネさんは言う。

 懐かしむように。

 誇るように。


「私のような者でも、誰かの役に立つことが出来る。誰かの幸せを見届けることが出来る。その瞬間に、立ち会うことが出来る」


 数々の出会いが、その人たちの笑顔が、自分の生きる意味になっていた。カサネさんは迷いもなくそう言い切る。


「中でも、トラキチさんに出会えたことは、私の生涯において大きな意味を持っていました」


 本来なら、相談者様に格差をつけるのはよろしくないのですが……と、少しだけ言い訳をして――


「あなたは、私にたくさんのことを教えてくれました。たくさんの素敵なものを与えてくれました」


 そう、言ってくれる。


「今まで、本当にありがとうございました」


 終わる。

 終わってしまう。


 お見合いが。

 今日という日が。


 カサネさんとの時間が。



『待ってください』



 と、言いたい。



『終わりにしたくありません』と。

『もっと一緒にいたいです』と。


『あなたのいない日常なんて考えられません』と――言ってしまいたい。



 ……けど。



「こちらこそ。本当に楽しかったです」


 喉を通り過ぎた言葉は、そんな当たり障りのないものに変化していて。

 本当に伝えたい言葉ほど、とても重くて、心の奥の、ずっと深くへ沈んでいってしまう。


『言ってしまえ』と、脳が命令を出しているのに、臆病な心は耳を塞いでそれを聞かなかったことにする。

 そのくせ、失いそうな予感に、こんな直前になって焦り始めて、目頭を熱くさせる。


 言葉に棘でも付いているかのように、吐き出すことを恐怖している。

 口にするだけで、喉も、口も、心も、全身傷だらけになりそうで……僕もそっと耳を塞ぐ。

 僕は、弱虫だ。

 一番大切な人に、一番伝えたい言葉が伝えられないんだから。


 家族を失った時、もう完全に手遅れになった後で「ちゃんと伝えておけばよかった」とあんなに後悔したのに。それでも僕の心は臆病にも閉じこもってしまう。

 後悔するのが分かりきっているのに。

『ほら見たことか』と、自分で自分が情けなくなるのに。


 今、目の前にあるこの顔を、曇らせたくない。

 突然の告白で、驚かせたくない。

 美しいまま、綺麗な思い出として、心の中にそっとしまって…………いや、違う。そんなの言い訳だ。


 断られるのが怖いんだ。

 拒絶されるのがつらいんだ。

 困らせてしまうのがイヤなんだ。


 これまで一緒にいられたのは、カサネさんが相談員で、僕が相談者だったからだ。

 その関係が崩れた今、不確かな未来へ足を踏み出す勇気が、僕にはない。

 自分の意志で相談所を離れようと決めたカサネさんに対し、ただ流されるままに身を委ねることしかしてこなかった僕はなんて幼稚だったんだ。

 周りの人が優しくしてくれるから、それに甘えて、甘えていることにすらきちんと気付きもしないで、守られていることを当然だと思っていた。

 肩を並べて歩けるはずがない。

 そう思ってもらえるはずがない。あるわけない。


 時間がなさ過ぎた。

 気付くのが遅過ぎた。


 一日の終わりを示すように、空は暗くなり、街灯代わりのトーチに火が灯る。

 陰影が濃くなり、世界が趣を変える。


 赤と黒に染まる世界の中で、カサネさんが静かに微笑んだ。

 言葉はない。何も言わない。

 ただ微笑んで、僕を見ている。


 揺れる炎に照らされるカサネさんは、本当に綺麗だった。

 この笑顔が見られただけでも、もう満足だ。


 あぁ、もう……ホント、ダメダメだ。


 僕の心はもうすっかり負けていた。

 尻尾を巻いて逃げ出す準備が整ってしまった。

 明日の朝、どれだけ泣き腫らした目をしていても、カサネさんに見られることはない。

 そんなことに、ちょっとほっとしてしまっている自分が情けなくて、笑える。


 フラれる度に号泣していた姉を思い出し、自分にはとても無理だと心がすくむ。

 ホント、すごいよ、姉さんは。


 こんな恐怖にずっと立ち向かってきたのか。

 何度も何度も、当たって砕けて、砕け散って、心配になるくらいに大泣きして、……それでもまた、立ち上がって、また向き合って。

 僕には無理だ。とても立ち向かえないよ。


 お見合いをして、お断りされるのには慣れた。

 カサネさんや佐藤さん、相談員さんたちがいてくれたから。

 傷付いても、「相手の方が幸せになれればいいですね」って笑うことが出来た。

「この次頑張りますよ」って強がることが出来た。


 けど、今回は違う。


 カサネさんを失うということは、拠り所を失うということだ。

 あぁ、なんてこった。

 いつの間にか、僕の心の中でカサネさんがこんなに大きくなっていたなんて。


 出会ってしまった以上、どんなに拒んでも、別れはいつか必ず訪れる。

 失うことは避けられない。

 けれど、壊さずにいることは出来るはずだ。


 たとえ失ってしまったとしても、壊れさえしなければ……もしいつか、どこかで偶然再会できたら、笑って話が出来るかもしれない。


 そんな細い繋がりに縋って生きても、いいですか?


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