未知数な彼女 カサネ・エマーソン -1-

 カサネさんが相談所を辞めた。

 さっき、レストランで急に告げられたその事実が飲み込めず、僕は家に帰ってからも何も手に付かない時間を過ごしていた。


「おい、トラ。お前、食卓にスコップ持ち込んで何する気だ?」

「え?」


 不意に師匠の声が聞こえて、僕は自分を顧みる。

 夕飯が並んだテーブルに座り、両手でしっかりとスコップを握りしめていた。


「……なぜ僕はこんな物を!?」

「こっちが聞きてぇよ」


 はぁ……と、師匠が重いため息をこぼす。


「トラ君、帰ってきてからずっと変よ? 相談員さんと、何かあったの?」


 セリスさんが心配そうに僕の顔を覗き込む。


「とら、おげんきないの? へーき?」


 チロルちゃんが僕のそばまで来て膝をさすって励ましてくれる。


 あぁ、もう……僕はまたこうやって師匠たちに迷惑をかけて……


「もう大丈夫です。まぁ、逆に考えれば都合がいいっていうか、ちょうどよかったかなって」


 カサネさんが相談所を退職した。

 なぜ急にそんな話になったのか、僕が暴走したことが原因なのか、カサネさんが自身で考えた結果なのか、僕には何も分からない。

 僕のせいなら謝りたい。けど、カサネさんがそれを望むとは限らない。


 そもそも、もう二度と、会えるかどうかすら…………


「担当の相談員さんが変わるみたいで、だから、僕もしばらくお見合いはしませんって言いやすいかなって。あはは、ある意味ラッキー? みたいな、感じです、よね。うん」


 師匠たちの心配を払拭しようと明るく戯けてみせる。

 きちんと笑顔を作れているだろうか。


「トラ……」


 師匠が何かを言いかけて、鼻を擦って顔を背ける。

 あ……笑顔、失敗してるっぽいな、僕。


「ご飯、いただきましょう! 冷めるともったいないですし。わぁ、美味しそうだなぁ」

「……そうね。たんと召し上がれ」

「はい!」


 気遣わしげにセリスさんが笑ってくれる。

 その優しさが、今は本当にありがたいです。


 考えたって、もう今さらどうしようにもない。

 カサネさんが相談所を辞めてしまった今、僕とカサネさんを繋ぐ糸は切れてしまったのだ。

 今になって思えば、僕とカサネさんの関係なんて、たったそれだけのものでしかなかった。……改めて突きつけられると、こんなにキツいなんてな。


 こりゃ、結婚は当分無理だろうな……




 ――かぷっ。




「ふぉゎあぁあああああ!?」


 突然、後頭部に噛みつかれ僕は悲鳴を上げる。

 何かが「かぷっ!」て! 「かぷっ!」って後頭部を!?


 立ち上がり振り返ると、そこには大きな魚が浮かんでいた。


「モ、モナムーちゃん? どうしてこんなところに?」


 それは、相談所の天井付近で放し飼いにされている浮遊魚のモナムーちゃんだった。

 好物は人の後頭部。……なんて危険種。


 師匠の弟子である僕は、この一家の中でもっとも身分が低く、当然一番の下座に座るわけで、工房とこのリビングを繋ぐ階段のすぐ手前の席に座っていた。

 そのため、モナムーちゃんの侵入に気が付けなかった。階段に背を向けているわけだしね。


 というか、師匠たちの目が点になっている。

 突然チロルちゃんよりも大きな魚が空を泳いで接近してきたら、びっくりして声も出せなくなるでしょうね。「危ないぞ」の一言も言えなかったのでしょう。

 誰も悪くない。

 ……この人食い魚、もとい、後頭部齧り魚以外は。


「何してんですか、こんなところで? エサもらってないんですか?」


 モナムーちゃんに問いかけるも、返事はなく、ただのんきな顔をしてぷかぷか浮かんでいるだけだった。


「いや~、すまんすまん」


 からからと笑いながら、小さな女の子が階段を上がってきた。

 ……誰だろう?


 見覚えのない幼女はにこにこと笑みを浮かべながら、手に持った細長い金属の道具を僕たちに見せながら言う。


「玄関の鍵がかかっていたから、ちょっと開けさせてもらったよ」


 犯罪者がここにいる!?


「よし、摘まみ出しましょう!」

「まぁ、待ち給えシオヤ・トラキチ君」


 不法侵入幼女が僕の名をフルネームで呼ぶ。

 え? 僕の知り合い?

 ……いや、知らない子だけれど?


「モナムーちゃん、おいで」


 幼女が手招きすると、僕の後頭部を狙っていたモナムーちゃんがぷかぷかと泳いでいく。

 幼女の背後に控えるように浮かび、未練がましそうにこちらを見つめるモナムーちゃん。


 ……飼い主?

 ということは、相談所の関係者……かな?


「もしかして、相談所の方、ですか?」

「ご明察だよ、シオヤ・トラキチ君」


 ぱちぱちと小さな手で拍手をくれる。

 えぇ……どうしよう。

 カサネさんの後任が、ものすごく常識を弁えない人だった。


「相談所の人は、みんなカサネさんみたいにきちんと教育されているのだとばかり思っていました……残念です」

「こらこら。それではまるで私が教育の行き届いていない残念な担当者のようではないか。失敬だぞ、少年」


 一切否定する要素がないこちらの意見を完全否定する幼女。

 どうやら、ものすごくプラス思考なのか自分が見えていないかのどちらからしい。

 こんな時間にアポイントも取らずに不法侵入してくるなんて、想定外過ぎる。


 けれどまぁ、折角出向いてくれたんだし、こちらの話もしておこうかな。

 当面の間、生活基盤を固めるためにお見合いを控えたいということ。

 それから、カサネさんには本当に感謝しているということも、伝えてもらえるようにお願いしよう。


「折角来ていただいたので、僕の話を聞いてもらえますか?」

「断ろう!」


 断られた!?


「生憎だが、私は人に指図されるのが嫌いでね。これまで腐るほど他人のお願いを聞き続けてきたんだ。だから、こっちの世界では自分の好きなように生きようと決めたのだよ」

「は、はぁ……」


 好きなように生きるのと、他人の家に不法侵入するのは話が違うと思うんですけれど。


「それで、僕に何かご用なんでしょうか?」

「無論だ。喜び給え、シオヤ・トラキチ君! 君に素晴らしいお見合いの話を持ってきてあげたよ。さぁ、崇め奉り給え!」


 胸を張り「どーだ!」と言わんばかりにふんぞり返る。

 全身から自信をみなぎらせているその幼女に、僕はぺこりと頭を下げる。


「すみません、お見合いはしばらくなしで」


 折角だけれど、僕はお見合いをするつもりはない。

 このままお引き取り願おう。


「そうか」


 短く呟いて、幼女は肩から力を抜いた。

 よかった。分かってもらえた。


「では、集合は明日の朝、相談所のカウンターだ」


 分かってくれてない!?


「詳しい時間は忘れないようにここにメモしておいてあげたよ。決して遅れないようにね」


 そう言って小さく折りたたまれたメモを手渡してくる。


「いえ、ですから、お見合いはもう……」

「君が来なければ、カサネ・エマーソン君が生着替えで下着姿を衆目に晒すことになる……かもしれないよ?」

「何させる気なんですか!?」


 カサネさんが生着替えで下着姿を衆目に!?

 一体、どういう状況ですか!?


「私はね、ヘソを曲げると自分でも何を仕出かすのか想像が出来ないタイプなのだよ」


 怖い怖い怖いっ!?

 この娘、素で怖い!

 見た目は思いっきり幼女なのに、中身は完全に手練れの公証人だ!

 どうすればこちらが断れないかを熟知しているいやらしさを感じる。


「……分かりました。伺います」


 僕のせいでカサネさんの人生に汚点を残すわけにはいかない。

 言うなれば、これは恩返しや罪滅ぼしだ。

 少しでもカサネさんへ向かう害意を逸らす一助となるならば、僕は協力を惜しまない。

 カサネさんのためになるなら……


「君が約束の時間よりも早く来れば、ひょっとしたら君の眼前に晒されるかもしれないよ~、カサネ・エマーソン君の、し・た・ぎ・す・が・た、がね☆」

「…………」


 …………行かなければっ!

 いやいや!

 違いますよ!?

 こんな、なんとも危険なことを言うような幼女の企みにカサネさんが巻き込まれているならば、これを蹴ると本格的にカサネさんに被害が及ぶと判断したからこその「行かなければ!」ですからね!?

 他意はありませんからね!?

 いや、本当に!


「ギリギリ着替え終わらないくらいの時間に来るのが、一番オイシイと思うよ~」

「…………」

「……にやにや」

「……き、決められた時間にお伺いします」


 くっ!

 なぜだか幼女の顔を直視できない!

 やましい心なんかないのにっ!

 ないのにぃ!


「それじゃ、明日は楽しいお見合いにしようじゃないか。お互いのためにも、ね」


 ひらひらと手を振りながら、来た時と同じように弾むような足取りで階段を降りていく幼女。

 ……結局、名前すら名乗らなかったな。


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