その一言ですべてが報われる -1-

「姉はもう亡くなっているんです」


 思わず、フォークを落としそうになりました。

 ただ、ここで大きな物音を立ててしまうと、トラキチさんに対しなんとなく失礼な気がして、懸命に堪えました。


「……そう、だったんですか」

「はい。今から八年ほど前になります。僕が高二の頃で……あ、学生の頃で、十七歳の時でした」


 困ったように眉を曲げ、なんでもないように軽く微笑む。

 けれど、ほんの少しの期間でしかないですが、トラキチさんを見守ってきた私には分かります。あれは、心配をかけないための作られた微笑みであると。


「おつらかったでしょうね」

「えぇ、まぁ……」


 トラキチさんは俯いて、少々大きめにカットされた鳥料理を口に詰め込んで、咀嚼するついでのように言葉を落としました。


「家族全員まとめて、でしたから……さすがに」


 カトラリーが妙に重く感じ、ナイフとフォークを握ったままの手がテーブルにつきました。

 驚いているのに顔の表情が一切変わらず、また、変えられませんでした。

 いろいろ考えようとしても、頭に血が回っていないような感覚がして、結局何も考えられませんでした。


「……え?」


 私に出来たのは、そんな短い一つの音を発声するだけでした。


「えっと、どこから話すと分かりやすいか……」


 私の顔を見て、トラキチさんはフォークを握ったままの手で口元を拭い、グラスの水を一口飲みました。


「姉が二十二歳になった時、十年来の初恋を成就させて結婚式を挙げることになったんです」


 トラキチさんのお姉様は『しょうがっこう』という幼い子供たちが通う学びの場で、自分の担当教師に恋をしたのだそうです。

 しかし、大人と子供の年齢差があり、当然相手にされませんでした。

 それでも、トラキチさんのお姉様は諦めずに、十年間自分を磨き、思い人に相応しい女性になろうと努力を重ねたのだそうです。


「隣で見ていると、鬼気迫るものがありましたよ。たぶんそのせいでしょうね。『努力』って、相当頑張らなきゃ口に出来ないなって思うようになったのは」


 あははと笑って、とても懐かしそうに目を細める。

 あの瞳には、遠い過去が映っているのでしょう。


「いろいろ巻き込まれて迷惑はしていたんですけど、けどやっぱ姉の努力を目の当たりにしているのでなんとか頑張ってほしくて、お守りをプレゼントしたんです。手作りの」

「手作り、ですか?」

「はい。『恋愛祈願』とか『恋愛成就』なんて言葉も知らなくて、平仮名で『おねえちゃんのすきなひとがおねえちゃんをすきになってくれますように』って書いた紙を入れただけのお守りだったんですよ。御利益なんか全然なくて、裁縫も下手だったんで見た目も悪くて、ホント不細工な出来損ないだったんですけど――」


 お姉様は、ずっと肌身離さず持ち歩いていたのだそうです。

 十年間。恋が成就するその日まで。ずっと。


「嬉しかったんでしょうね、トラキチさんの思いが」

「だと、いいんですけどね」


 そうに決まっています。

 でなければ、十年もの間大切に持ち歩くわけがありません。


「それでまぁ、なんとか結婚式の日を迎えたんですけど、朝からホントにバタバタしてまして」


 お姉様は、『結婚式と婚姻届は同じ日に!』『引っ越しは新婚旅行から帰ってきてから!』『新郎は朝早く私を迎えに来て家族みんなで式場入り!』と、いろいろとこだわりを見せていたそうです。

 トラキチさんが言うには、「ぎりぎりまでウチの娘でいたかったんだと思います。家と家族が大好きな姉でしたから」ということだそうで、トラキチさんは「何もかもまとめるとバタバタするよって忠告したんですけどね」と苦笑を浮かべました。


「それで、会場入りして姉がウェディングドレスに着替えて、親族へのお披露目をしている時に『お守りがない』って騒ぎ出したんです」

「お姉様が、ですか?」

「はい、姉が」


 肌身離さず持っていたお守りを紛失していることに気付いたお姉様はドレスのまま家に戻ると言い出したそうです。


「全力で止めました。当然ですけどね」

「それで、お守りはどうされたのですか?」

「『もう恋愛成就したからいらないでしょ』って言っても聞かなくて……」



『虎が私のために作ってくれたお守りだよ!? 今日こそ着けなくてどうするの!?』

『あんなボロボロのお守りなんか着けてたらみっともないでしょ。折角綺麗なドレス着てるんだから』

『虎は分かってない! あれは、あれには、虎の愛情がいっぱい詰まってるの! 作ってくれた時だけじゃなくて、私がフラれる度にお守りを握って「効力追加しとくから泣き止んで」って慰めてくれてたじゃない! 十年分の虎の愛が詰まってる宝物なの!』

『そんな大袈裟な……』

『大袈裟じゃないよ。私が今、こんなにも幸せなのは、みんな虎のおかげ。本当に、本気でそう思ってるんだよ?』



「――そう言って、微笑んでくれたんです。今でも鮮明に覚えてます。すごく綺麗でした」


「身内褒めですけどね」と、鼻を鳴らして笑みを浮かべる。

 また一口、こくりと水を飲んでトラキチさんは息を吐く。


「それで、まぁ、ほだされちゃったんでしょうね。僕が取りに行くことになって……というか、自分で言い出したんですけれど。父に三万もらってタクシーで……えっと、指定した区間を移動してくれる交通機関を使って家に帰ったんです」


 家に着くと、廊下にお守りが落ちていたそうです。

 長く愛用され、紐が摩耗して切れてしまっていたのだそうです。


 トラキチさんの愛を感じてずっと肌身離さず持ち歩いたこと、ギリギリまで家にいたくて一番最後に家を出たことが仇となって、誰にも気付かれずにお守りは取り残されたのだろうと、トラキチさんは見解を述べました。


「それで、タクシーに乗って式場に戻ろうとしたところで、父から電話があったんです。……あ、電話って、長距離で連絡を取れる手段なんですけど」


 その連絡は、トラキチさんには喜ばしくないものでした。

 トラキチさんのお姉様が、式場で倒れた。病院へ連れて行くから式場ではなく病院へ来てほしい。

 そのような内容だったそうです。


「慌てて駆けつけました。掛かりつけの病院だったので、式場からよりウチからの方が近くて、僕はロビーで家族の到着を待っていたんです。ずっと、ず~っと待っていたんですけれど…………結局、誰も来ませんでした」


 そして、『電話』というもので見知らぬ者から連絡が来たのだそうです。





『ご家族の乗った車が事故に遭い――』





「そこから、記憶がないんですよね。電話口で何かいろいろ言われていて、僕もそれに対応して、葬儀とか相続とかやらなきゃいけないことはきちんと済ませたはずなんですけど、……記憶がないんですよね」


「まるで『世界』の統合に巻き込まれた後の記憶の混在みたいですね」と、悲しそうに笑う。

 胸が、苦しくなりました。


「誰が運転していたのか、どんな状況だったのか、ちゃんと聞いたはずなんですけど、よく思い出せなくて。その時に理解していたのは、同乗者が全員即死だったということ。僕の家族が、一度にみんないなくなってしまったということだけでした」


 運転していたのは新郎で、その彼も犠牲になったそうです。


「新郎を、怨みましたか?」

「いいえ。姉が生涯を賭して愛し抜いた相手ですから。それに、義兄さんに過失はなかったって聞いてますから」


 気が付くと季節が一つ戻っていた――と、トラキチさんは言いました。


「結婚式は春だったのに、窓の外を見たら大雪で、どう見ても冬なんですよね」


 時間が戻ったのかと思った――と、陽気に言って、すぐに沈痛な面持ちで首を振りました。


「そんな都合のいい話はありませんでした」


 ぽつりぽつりと、雪のように言葉が落ち、消えていきます。

 放心状態で一年近くの時間を過ごしてしまっていたと。

 ふと見れば、手の中にはボロボロになったお守りが握られていたと。


「その時、ふと違和感に気付いたんです」


 手の中にあるお守りが分厚かったのだそうです。

 自分が入れたのは紙切れ一枚のはずなのにと、トラキチさんが中を改めると――




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