最後の務め -1-
なぜ、あのようなことを言ったのでしょう。
なぜ、あのようなことをしてしまったのでしょう。
暗いオフィスに一人、デスクに座ったままで自分の手を見下ろします。
立ち上がろうとしたトラキチさんを止めたこの手は、何を望んでいたのでしょうか。
「……はぁ」
何度目かのため息が落ちました。
このような気持ちは初めてです。
胃が重く、気だるく、吐き気がして、酷いめまいで世界が回る。
何もしたくないほどの無気力に飲み込まれているくせに、何かをしなければという焦燥感に駆り立てられる。
ややもすれば、意味不明な奇声を上げてしまいそうな衝動が喉元まで押し寄せてきて、仮にそうしてしまった後の自分を想像して、虚しさにため息をこぼす。
私は、一体何をしているのでしょうか。
思い返せば、今日の私はずっと変でした。
約束の時間より随分早く待ち合わせ場所に行ってみれば、すでにお二人がいて、どこか楽しそうにお話をされていました。
その光景を見た時からです。私は、ずっと呼吸が苦しかった。
私がいなくとも、お二人は出会い、楽しげに会話をされていて……まるで、私など必要ないと突きつけられたような……
そんな被害妄想に、私は囚われてしまったのです。……拗ねていたのだと、思います。
「……馬鹿ですね。トラキチさんの左腕に嵌められていた銀の腕輪を見て、『自分も銀のブローチを着けてくればよかった』などと考えてしまっていたんですから」
それをして、なんになるというのでしょう。
ただの相談員が、出しゃばろうとして、思い通りにいかなくて、拗ねてしまった。
それで、お相手の情報をお知らせするのを忘れてしまうなんて、救いようがありませんね。
それだけではありません。
食事をしようと歩き始めた時から、私はずっと憂鬱だったのです。
この道を歩きたくない。この先へ進みたくないと。
今思い返せば、アレは不安の表れだったのだと自覚できます。あの時はただ、原因不明の息苦しさに戸惑っていただけでした。
そして、見知った道を進むと、当然記憶通りの場所に出て……
トカゲのしっぽ亭の前にたどり着き、私は思ってしまったのです。
『今、ここに入るのはイヤだな』……と。
そして、店が休みだと知って……ほっとしたのです。
その瞬間をトラキチさんに見られて、慌ててそっぽを向いてしまいました。
変に思われなかったでしょうか……
バレては、いなかったでしょうか。
浅ましい、私の感情が。
それ以降、なんだかトラキチさんがいつものトラキチさんではないように思えて……
うまく言葉には出来ないのですが、なんとなく……無理をしているような、いえ、そうではなく……焦っているような?
とにかく、いつもの、お相手の心に向き合おうという余裕が感じられなかったのです。
……私がそのように、勝手に思い込んだだけ、だったのかもしれませんが。
私は確かめなくてはいけないと思ったんです。
『無理をしていませんか』
『今日はなんだか変じゃないですか』
『どうしてそんなに彼女を受け入れようと躍起になっているんですか』……と。
だから、公園の休憩所でクレイさんが席を立ったのを見計らい、私はトラキチさんに声をかけたんです。
なのに。
一歩、また一歩とトラキチさんに近付くにつれ、問いかけたい言葉に自信が持てなくなっていったのです。
もう一人の私が『あなたが聞きたいのはそんなことではないでしょう』と、私に言うのです。
私が本当に尋ねたかったのは……
『この人を選んで、本当にいいんですか?』
……さすがに、言えませんでした。
何も言えず、けれど黙っていることも出来ず、当たり障りのない質問をしたのです。
『今回は、随分と前向きなようですね』
そんな空々しい言葉に、トラキチさんは――
『はい。今回こそは、いい結果にたどり着けそうです』
――そう、答えられました。
何も、言えませんでした。
呼吸は、どんどん難しくなっていました。
その結果、私はトラキチさんに指摘されるまで、クレイさんがなかなか戻ってこないという状況に気付きもしなかったのです。
指摘されて焦りました。心臓が冷えるという感覚を初めて経験しました。
空回る思考回路をなんとか落ち着かせようと、懸命に体を動かしました。
もし、相談者様の身に何かあれば……私には償いのしようがありません。
眼球の奥にせり上がってくる熱をなんとか抑え込み、冷静を装いました。
けれど、二手に分かれようという提案に、私はみっともないわがままを言ってしまったのです。
離れたくないと。
……あの時、なぜそう言ったのか、自分でもよく分からなかったのですが…………今なら分かります。
私は、独りぼっちになりたくなかった。
あんなにも切羽詰まった状況だったというのに。
……情けない。
そして……
「あれは、もう、弁解のしようもありませんね……」
クレイさんを見つけ、その心の内を知り、ほんの少しだけその気持ちが分かると、思いました。
私ごときが、一丁前に、他人様に共感などという、生意気なことを……
共感、できたというのに……
クレイさんのもとへ向かおうとしたトラキチさんを、私は……私のこの手は、止めたのです。
そして、相談員として最低の……あるまじき発言を……
「……ぅくっ!」
思い出そうとするだけで胸が痛みます。
鋭い剣に胸を貫かれているような激痛が走ります。
そこには何もないのに、痛みだけがやけにリアルに感じられるのです。
正直、あの時自分が何を口走ったのか、正確には思い出せないのです。
ただ、最低な発言をしていたということだけは理解できます。
だからこそ、あのような事態に……
私たちの会話をクレイさんに聞かれ、追い詰め……トラブルを引き起こしてしまった。
すべて、私の責任です。
飛び出していったクレイさんを追いかけてトラキチさんが走り出してもなお、私は一歩も動けませんでした。
まぶたの裏が燃えるように熱くなり、呼吸が乱れ、全身の制御が利かなくなったように震え出して……私は生まれてはじめての絶望感に打ち震えるだけでした。
苦しくて苦しくて、うずくまることしか出来ませんでした。
誰かに縋りたくてたまらず、一人では迫りくる絶望に抗える気がせず、私は……クマキチさんに縋りました。
力の限りに、強く抱きしめました。
トラキチさんがクレイさんに贈った物なのに。
私の物では、決してないのに。
クマキチさんは、こんな私にも優しい温もりを与えてくれました。
抱きしめるだけで、少しずつ、心が落ち着いていくようでした。
濡れた落ち葉に火をつけるかのごとく苦心して、私はなんとか使命感を燃やし立ち上がり、遅ればせながらお二人を追ったのです。
そして、あの現場を目撃し、怒りに我を忘れました。
トラキチさんに怪我を負わせ、クレイさんを危機にさらし、そしてお二人の仲を決定的に壊してしまったのは、……私でした。
私がそばに付いていれば……
そんな後悔は激しい怒りに飲み込まれ、私はすべてを排除しました。
かなり強引な方法だったと思います。
大事になれば、私一人の身では背負いきれない責任問題になるでしょう。
けれど、あの時の私には、そうする以外何も出来ませんでした。
「重ね重ね、相談員失格ですね」
結果として、今回のお見合いは破談になりました。
私の不徳のせいで。
申し開きの余地など、ありません。
「……ふぅ」
ため息に似た重い空気を吐き出す。
けれど、これはおのれの不出来を嘆くものではありません。
やるべきことをやり遂げるための、決意の表れです。
反省してもしきれないほどの失態に後悔は尽きないけれど、それでも頭を切り替えて仕事に向かいます。
トラキチさんと約束をしたのです。
あの日。
破談に終わったお見合いの後で。
帰路に就くクレイさんの背中を見送った後で。
『クーちゃんが幸せになれる相手の方を、探してあげてくれませんか』
そう言ったトラキチさんに、私は誓ったのです。
『命に代えても見つけ出してみせます』と。
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