もう寂しいのは嫌だから -6-
「トラ、くん……」
憔悴しきった声で、クーちゃんが僕を呼ぶ。
俯いた顔に微かな笑みが浮かんでいて……胸騒ぎがする。
「ありがとう……トラくんがあの人を蹴り飛ばしてくれてなかったら……わたし、また……人を殺めてしまってた…………ありがと……ね、トラくん……」
そして、音もなく大粒の涙がこぼれる。
線香花火が落ちて消える瞬間を見ているようで、たまらない焦燥感に飲み込まれる。
「折角オシャレしてきたのに、ぼろぼろ……やっぱり、ダメ……ですね、わたし」
両腕と肩の一部が焼け焦げて破れている。
スカートも、枝に引っかけたのかほつれや裂けている箇所が散見される。
「…………ぐすっ」
無理やり作った笑顔が崩れ、クーちゃんの顔がくしゃっと歪む。
片手で顔を覆い、もう片方の手で胸元の服を掴む。心臓を握り潰しそうなほど、乱暴に。
「……もうヤダ…………こんなバケモノに、生まれたくなんかなかった……っ」
くるっと身を翻し、クーちゃんは走り出す。
まっすぐに、運河の方へ。
冗談でしょう?
覗き込まなくても分かる。
この道から水面までの高さは相当なものだ。
その運河にしたって、あんな巨大な船が往来しているんだから浅いわけがない。
そんなところに飛び込んだらどうなるか……
させるわけないだろぉ!
躊躇いなく飛び込んだクーちゃんの腕をすんでのところで掴まえた。
勢いに飲まれて引きずり込まれそうになるが死ぬ気で踏ん張った。地面に倒れ込んでもなお、あいた手と顔面と体全体を使って踏ん張った。
その甲斐あって、僕の右手はなんとかクーちゃんの腕を離さずに済んだ。
「離してくださいっ!」
「上がってくるって約束したらね!」
「死なせてくださいっ! わたしなんて、生きていたってなんの価値もないんです! それどころか、生きているだけで周りに不幸を…………だからっ!」
「僕は楽しかったよ!」
生きているだけで周りを不幸にする?
冗談じゃない!
「君が、どんなつらくても今日まで生きていてくれてよかったって、感謝したいって、心の底からそう思えるほど、今日のお見合いは楽しかったよ!」
「嘘!」
「嘘じゃないっ!」
クーちゃんが暴れるから、腕一本ではつらくなる。
もう一本の腕を伸ばして、両手でしっかりとクーちゃんの腕を掴まえる。
もくもくと、不気味な黒いモヤが接触している肌から立ち上り始める。
「君が何を感じ、何を思ったとしても、僕の気持ちまでは否定させない! 僕は、クーちゃんと出会えて本当に嬉しかった!」
「ダメっ! 早く離して! じゃないと、トラくんが……!」
「クーちゃんは今日、楽しくなかった!? こんなお見合い、来なきゃよかった!? 後悔でいっぱいで、僕の顔なんか二度と見たくないって思ってる!?」
「そんなわけないっ! ……わたしは、トラくんとお見合いが出来て……生まれて初めて、幸せって言葉の意味を、理解……したよ」
黒いモヤが僕の腕を伝ってくる。
肩まで侵食してきて、それに呼応するように左腕に鈍い痛みが走る。
けど、離さないからな!
「トラくんは、わたしにとって、とっても大切な人……だからっ、お願い……手を、離して…………あなたを、殺したくない…………お願……ぃ」
涙に飲まれて言葉が途切れる。
まったくもう……
「僕も同じだよ」
そんなわがまま、一方的に押しつけるなんて、酷いよ。
「僕も、君を殺したくない」
見殺しになんか、出来るわけないでしょ。もう。
「上がってきて。そして、話をしましょう」
「けど……」
「うんと言うまで離しませんよ」
「…………ずるぃ」
「男ってズルいもんなんです。おまけに自分勝手なんです」
そういうことにして、クーちゃんを強引に引き上げる。
正直、もう腕に限界が来ていた。
途中ですっぽ抜けないか冷や冷やしたけれど、なんとか地面へと引き上げた。
「……はぁ……はぁ……」
引き上げられたクーちゃんは、地面に手を突いて肩で息を繰り返す。
引き上げられる方も相当体力を消耗するらしい。
両腕がジンジンする。
特に左腕が。
それでも、どうしても伝えなければいけないことがある。
僕の迂闊な発言のせいで、きっともう僕たちは何もなかったようには付き合えないだろう。
だからこそ、これだけは、きちんと覚えておいてほしい。
自己否定が強くて、自分に自信がなくて、なんでも悪い方へ考えてしまう困った彼女に、目を逸らさずに聞いてほしくて――
「クーちゃん」
「……ふぇっ!?」
――僕は、両手で彼女の頬を挟んで、顔を覗き込む。
目と目の距離は20センチ程度。
どんどん熱を帯びていく彼女の温度を感じながら、ゆっくりと言葉を贈る。
「俯かないで。俯いちゃったら、君の周りで心配している人の顔も見えなくなるでしょ?」
自分なんか誰にも必要とされていない。
すべての人に嫌われて、避けられて、疎まれている。
そんな感情に支配されないで。
「自分の殻に閉じこもらないで。一歩足を踏み出せば、世界はきっと、君が思っているよりもずっと広いよ」
広い世界には数え切れないくらいの人がいて、その無数の人はそれぞれがみんな異なる価値観や考え方を持っていて、同じ人なんか一人といない。
素晴らしい人もいるし、しょうもないヤツもいるし、変な人もいる。
「ちゃんと周りを見て。君のことを大切だと思ってくれる人を見落とさないで。君と仲良くなる機会を奪わないであげて」
僕やカサネさんのように、あなたを守ろうと全力で走り回る人が、きっと他にもいます。
たくさんいます。
まだ出会っていないか、出会っているのにそうと気が付いていないだけで。
「そして、決して忘れないで。君を大切に思っている人がここに、確実に一人いるってことを」
「…………ぁあっ」
薄く開かれた唇から掠れた声が漏れる。
「……お……母、さん」
震える手が、僕の手に重ねられる。
温かい雫が頬を伝い僕の手を濡らす。
「……思い、出しました…………母が……お母さんが、最後に言っていた、言葉…………」
呪詛の言葉を吐きながら、事切れるまで忌み子である自分の首を絞めていた。
クーちゃんはそう語っていた。
けれど、実際は――
「お母さんは、こうして……トラくんが今してくれているみたいに、こうして、わたしの頬を包み込んで…………首なんか絞めてない……すごく優しい目をして、すごく優しい声で……」
『独りぼっちになっても、決して俯かないで。その目で世界をしっかりと見て、あなたを大切にしてくれる人を探すのよ』
「そう言って……わたしの力を……この呪いの力を、その体の中に……」
『……ごめんね、母さん、こんなことしかしてあげられないけれど……少しでもあなたの力が弱まるように…………』
「……すごく、無茶をして……自分の命と引き替えに……わたしの力を弱めるために…………そして、最後の瞬間に……」
『どうか、忘れないで……わたしの可愛い娘。母が、あなたのことをとても愛していたことを』
「……そう言って、笑って………………っ!」
それ以上は、聞く必要がなかった。
僕は目の前で揺らめいていた瞳を引き寄せて、ぐっと力強く抱きしめた。
「よかったね、思い出せて」
「……うん…………トラくんの、おかげ…………うぅっ!」
背中に回された手が僕の服を力強く握る。
どうか、せめて彼女の涙が止まるまではこのままで――
そんな願いも空しく、その変化はすぐに訪れた。
「――っ!?」
左腕に、引き千切られたのかと思うほどの痛みが走り、同時に甲高い破砕音が響いた。
その瞬間、僕の胸をクーちゃんの両腕が突き飛ばす。
勢いに負けて尻餅をついた僕は、自身の左腕へ視線を向ける。
そこに着けておいたはずの、師匠の腕輪がなくなっていた。
地面に粉々に砕けた銀の欠片が散らばっている。
「……退魔の腕輪、ですね」
「う……うん。そうみたい、だね」
そういえば、師匠が魔を祓う力があるとか言っていたけれど、その効力……なのかな?
「その腕輪がなければ、トラくんは今、死んでいましたよ?」
「あはは。以後気を付けます」
「信用できません」
顔は濡れたままだが、涙が止まったクーちゃんは空を見上げて手のひらで涙を拭う。
口元が緩く弧を描き、寂しげではあるけれど柔らかい、素直な笑顔が浮かんだ。
「トラくんと結婚すると、わたし、すぐ未亡人になっちゃいそうです。わたし、もう寂しいのは嫌です」
それは、明確な別れの言葉だった。
「けど、これだけは言わせてください。本当に、本当に心からの素直な気持ち」
雪が降り始めた夕暮れ迫る空の下、彼女はこの日最高の笑顔を僕に向けてくれた。
「わたし、お見合いしてよかったです」
最高の笑顔を見せる彼女の頬を、一筋涙が滑り落ちていった。
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