もう寂しいのは嫌だから -5-
泣き腫らしたような真っ赤な目と、血の気が引いたような真っ青な顔をして。
クーちゃんが僕を見つめていた。
「あの、これは違……」
「……っ!」
『違うんです』と、弁明をする前に逃げ出された。
何が違うのかなんて分からないけれど、とにかく違うと伝えたかった。
こうなるはずじゃなかった。
こんな風にしてしまうつもりなんかなかった。
想定し得る最悪のさらにその下をいく最低な事態を引き起こしてしまった自己嫌悪に狂いそうになる。
「クーちゃんっ!」
考えることを放棄して走り出す。
とにかく彼女を捕まえなければ。
止めなければ。
このまま別れて二度と会えなくなるのだけは絶対に嫌だ。
「待って!」
活発そうなタイプには見えないのに、ものすごく速い。
之人神は身体能力が人間よりも高いのだろうか。
木の根に躓き、枝葉に遮られ、地面の凹凸にいちいち足を取られる。
茂みを抜けた時には結構な距離をあけられてしまった。
泣きながら全力疾走する女性を、公園にいた者たちは奇異な目で見つつも関わり合わないようにと避けていく。
それを必死に追う僕にも好奇の視線が向けられる。
知ったことか。
人が避けてくれるなら走りやすくてちょうどいい。
公園を南東方面へと進む。
木々が少なくなり道が急に広くなる。
大きな荷車が往来し、人通りが増える。
その向こうに帆を畳んだ大きな船が見えた。
運河だ。
公園を抜けた先には巨大な運河が横切っていて、それに沿うように頑丈で幅の広い道が延びていた。
公園を出て右折したクーちゃんは、曲がってすぐのところでガタイのいい男と危うく衝突しかける。
「うおっ、危ねぇな!?」
男が咄嗟に身をかわし、かろうじて衝突は免れた。
僕は男を避けるように少々迂回してクーちゃんを追う。
男のそばを通り過ぎる時、別の男二人が近寄ってきて――
「どうした?」
「いや、あの女がよぉ」
――そんな恨みがましい声が聞こえた。
けれど、今はそれよりも彼女を止めなければ。
平坦な道に出てから徐々に距離が縮まっていく。
全力で走って、なんとか腕を伸ばせば捕まえられそうな距離まで追いつく。
けれど、腕を掴むわけにはいかない。
そんなことをすれば、また彼女が傷付いてしまう。
また、「わたしのせいで」と自分を責めてしまう。
「待って! 話を……っ! 話を聞いて!」
大声で語りかけるが返事はない。
「不用意な発言で、傷付けたことは、謝るよ! けど、そんなつもりじゃ、なくて、僕は……っ!」
乱れる呼吸の合間で、途切れ途切れだけど思いの丈をぶつけると、クーちゃんは突然立ち止まり両手を握りしめて胸を押さえつけた。
激しく上下する肩に合わせて、乱れた呼吸の音が聞こえる。
僕も立ち止まり、呼吸を整えつつ彼女の前に立つ。
俯く彼女の口から、か細い声が聞こえてくる。
「……がう…………違ぅ……んです……」
顔を上げたクーちゃんは、ぐしゃぐしゃに泣いていた。
胸が締めつけられる。
これが、僕の犯した罪の重さだ。
「違うんです……っ! トラくんが、悪い、んじゃなくて……わたしが…………っ!」
そう思わせてしまったことが、罪だ。
「一人で浮かれて、勝手な夢を見て……もう少しで……トラくんの幸せを、メチャクチャに……」
「それは違うよ。僕は本当にクーちゃんと――」
「わたしはっ! ……トラくんを救っては、あげられない…………」
ぼろっと、大きな雫がこぼれ、ひくっと彼女が喉を鳴らす。
「わたしは、トラくんを不幸にしちゃう、だけ……だよ……」
「そんなことないよ」
「なく、ないよ……っ」
この頑なな感情。
僕にも覚えがある。
あぁ、どうして……
どうして孤独な人は、自分を責めてさらに孤独感を強めてしまうのだろうか。
自分が孤独なのは自分に原因があるんだと。
すべて自分のせいなのだと。
どんどん自分を追い詰めてしまう。
それを否定してくれる人がそばにいないから、その自己否定は留まることを知らず、時間が経つにつれその思考は定着され、ちょっとやそっとじゃ変えられなくなってしまう。
『誰かが不幸になるのは、自分がいるせいなんだ』
――と。
「クーちゃんの力は、クーちゃんのせいじゃない。誰かが悪いなんて、そんなことないんだよ」
「トラくんは、優しいから……」
嘘でもそう言ってくれるんでしょ?
あふれ出す涙の向こうで、揺れる瞳がそう訴えていた。
「ごめんなさい……わたしなんかが…………お見合いなんて受けなければよかったのに…………ごめんなさい……」
「そんなこと――」
そんな悲しいことを言わないで。
「お見合いしてよかった」って、さっき笑ってくれたじゃない。
あの時の気持ちを否定しないで。
懇願したかった。
縋りついてでもそうお願いしたかった。
けれど、部外者の介入によって僕の言葉は邪魔された。
「謝る相手が違ぇんじゃねぇか、おぅ?」
先ほどのガタイのいい男が、同じような体型の厳つい男二人を引き連れてこちらへやって来る。
ガラ悪く、厳つい顔をニヤつかせながら。
「人にぶつかっといてアイサツも無しか、あ? 姉ちゃんよぉ」
「そうだぜ。こいつ、それで怪我しちまったんだからよ」
「そうそう。明日から仕事どーすりゃいいんだろうなぁ? へへっ」
クーちゃんを取り囲むように男たちがにじり寄ってくる。
「嘘だ。ぶつかってなんかなかった。僕はしっかり見ていたよ」
クーちゃんを背に庇い、男たちの前に立ちはだかる。
今はそれどころじゃないっていうのに、煩わしい。
「っせぇな! テメェにゃ関係ねぇんだよ!」
岩のような拳が僕の頬を殴り飛ばす。
これまで経験したことのないような痛みが走り、僕の体が宙へと投げ出される。
「トラくんっ!?」
硬い地面に体を打ちつけるも、脳がふらふらして呻くことしか出来ない。
「仕事が出来なくなったからよぉ、姉ちゃん、看病してくれや? いいだろ、そんくらい? オメェのせいで怪我したんだからよぉ?」
「ついでに俺らの看病も頼むわ」
「いいだろ? へへっ」
下卑た声が聞こえる。
「トラくんっ!」
同時に、僕を心配する声も聞こえる。
……立たなきゃ。
こんなところで寝ている場合じゃない。
ふらつく頭を強引に持ち上げると、男がクーちゃんの腕を掴む姿が目に映った。
……やめろ。
「いいから来いよ、ほら!」
……手を離せ。
「離してくださいっ!」
「『離してくださいっ』だってよぉ、か~わぃい~!」
「こっちのお手々もつなご~ね~。へへっ」
……やめろ。
これ以上、クーちゃんを傷付けるな。
「その手を離せぇ!」
立ち上がり、拳を握って駆け出すが、……間に合わなかった。
「うぎゃぁああああああああ!」
「熱ぃぃいいいいいいぁああああああっ!?」
あとから腕を掴んだ男は弾かれたように手を離したが、最初の男は叫ぶばかりで腕を放そうとしない。まるで感電でもしているかのように体が変な形で硬直している。
まずい。
そう思った。
誰かが感電した時は、感電している人への接触を最小限にしつつ一気にその場から弾き飛ばせるドロップキックが最適だと何かの動画で見た。
信憑性を検討する時間はない。
僕は駆け出した勢いに任せて男に跳び蹴りを食らわせる。
男を助けるためなんかじゃない。
これ以上、クーちゃんがあの力を使わなくて済むようにだ。
重たい音をさせて男が地面へと投げ出される。
倒れ込んだ男の腕は、肘から先が焼け爛れたかのように黒ずんでいた。
「……はっ……はっ……はひっ……はひっ……はひぃっ!」
倒れた男は、明らかに異常な呼吸を繰り返している。
目が見開かれ焦点が合っていない。
体が痙攣しているのか奇妙な動きでのたうち回っている。
「てっ、テメェ! 何しやがった!?」
連れ二人が急に苦しみ出したのを見て、残った男がクーちゃんに詰め寄り、乱暴に肩を掴む。
「離……っ!」
「痛ぇぇえええ!」
クーちゃんの力が発動するより早く、クーちゃんの肩に置かれた手は強制的に退けられ、そのまま流れるような動きで男の肩甲骨付近へと締め上げられる。
「当相談所の相談者様に手荒な真似は許しません」
クマキチさんを小脇に抱えたカサネさんが大男を片手一本で捻り上げている。
今まで見たことがないくらいに、瞳が怒りに燃えているように見えた。
「憲兵に突き出されたくなければその男たちを連れて直ちにこの場を去りなさい。法的機関に訴えるというのであれば受けて立ちます。法の埒外で報復するというのであればそれも受けて立ちましょう。私は結婚相談所『キューピッツ』のカサネ・エマーソン。以後の対応は私が引き受けますのでお忘れなきよう」
体積で言えば三倍はあろうかという大男を細腕で突き飛ばすと、カサネさんは僕とクーちゃんを背に庇うように男たちの前へと立ちはだかった。
僕よりも小柄なカサネさんの背中が、すごく頼もしく見えた。
しかし、正面から見た印象はまるで異なったようで、男たちは「ヒィッ!」と情けない声を漏らして一目散に逃げ出した。
さっきまで蹲っていた男も自分の足で立ち上がりしっかりした足取りで走っていった。
「あれだけ走れれば大丈夫、ですよね?」
「えぇ、おそらくは。腕の怪我は……自業自得でしょう」
暴行、誘拐、恐喝、恫喝、詐欺、強制猥褻の罪に問われなかっただけ、感謝するべきでしょう。と、カサネさんは言い放つ。
本当に、頼もしいんだから……
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