もう寂しいのは嫌だから -4-
クマキチさんを向かい合うように目の前に置いて、クーちゃんが震える声で語りかけている。
声から、必死さが伝わってくる。
「どうしたらいい……? ねぇ、クマキチさん……わたし…………欲張りになっちゃうよ……」
ちょうど背中を向けるような体勢のため顔は見えないが、髪の間から覗く耳は真っ赤に染まっていた。
震えて、時折詰まる声は、泣いている顔を連想させる。
「こんなこと、望んじゃダメなのに……絶対、迷惑かけるのに……それでも…………一緒にいたいって、願っちゃう…………離れたくないって……ずっと、一緒にいたいって…………っ!」
ぐずっと、鼻を鳴らす。
あふれ出した涙が限界を超えたのか、両手で交互に目元をこする。
「……ゃ、だよぅ……」
何度拭ってもあとからあふれてくるようで、クーちゃんは何度も何度も腕を動かしていた。
そして――
「独りぼっちのお家に、帰りたくないよぅ…………」
そんな本音を吐露した。
その感情に、僕も覚えがあった。
暗い家に帰りたくなくて、あてもないのに街をさまよい、何か縋れるものを必死に探し回った記憶が。
結局、街を歩いても一人には変わりなく、孤独は癒されず、空は暗くなって……何も出来ないまま無力感に苛まれて、暗い家へ帰るのだ。
あの頃に、もし今の半分でも僕の心に感情が残っていたら……きっと、今のクーちゃんのように大泣きをしていただろう。
心が乾くと、涙さえ流せなくなる。
今、クーちゃんが涙を流せるなら、今、救ってあげなきゃいけない。
このまま放置したら、クーちゃんは「寂しい」って泣くことすら出来なくなってしまう。
僕なら……
同じ孤独に共感できる僕なら、クーちゃんを……
立ち上がりかけた僕の肩が、力強く掴まれる。
強く掴んで、ぐっと力がこめられる細い指が、「立つな」と無言で訴えてくる。
「…………」
肩を掴むカサネさんを見ると、なぜか彼女は、泣きそうな顔をしていた。
「いいんですか?」
数瞬の後、小さな言葉が聞こえる。
『何が』とは聞き返さない。
カサネさんの表情がすべてを物語っていたから。
だから、僕はその問いに対する最適であろう言葉を返す。
「当たり前でしょ。僕は、そのためにお見合いをしているんですから」
お見合いをした相手が、僕と離れたくないと思ってくれている。
僕も、その人を独りにしておきたくないと思っている。
だったら、一緒になれば双方の願いは成就される。
何も迷うことはない。
疑問を挟み込む余地もない。
なのに、カサネさんの指には一層強い力がこめられる。
肩に食い込む指が、なんだか、胸を締めつけた。
「僕が、望んで決めたことです。僕、やっと幸せになれそうです」
安心させるつもりで、そう言った。
なのに……
「……え」
カサネさんの眉毛が、悲痛に歪んだ。
初めて見た……カサネさんの泣きそうな顔。
俯き、顔を逸らし、それでも肩に置かれた手はそのままで、乱れた呼吸を整えるように浅い深呼吸を繰り返す。
「それは、……愛情ですか」
俯いたまま発せられた問いは、地面に反射して僕へと届く。
愛情……か、どうかはまだ分からない。
けれど、大切にしたいとは、思える。
「…………同情では、ありませんか?」
それを否定することは、僕には出来なかった。
けれど、同情でもなんでも……
「きっかけなんて些細なことです。これから築き上げていくものでしょう、関係って」
なんだか、カサネさんの顔を見ているのがつらくなって顔を背ける。
肩に置かれた手を、そっと払いのける。
これでいいんだ。
そう確信している。
この選択が誰も傷付かない最良のものだと、胸を張って言える。
これでいい。
これでいいんだ。
なのに、なぜか僕は、何度も何度も……自分に言い聞かせるように同じ言葉を頭の中で繰り返していた。
胸は張れても、顔は見られなかった。
「ここを離れましょう。無事が確認できましたし、彼女も泣いているところを見られたなんて知りたくないでしょうし」
カサネさんの顔を見ないように立ち上がり、音を立てないように茂みの中を引き返す。
「トラキチさんの望みは――」
歩き出した僕の背中に、カサネさんの声が届く。
「ご自身の家族のような、温かい家庭を築くことだと解釈していました」
前に進もうとする意思とは反対に、足は根が生えたように動かなくなる。
「仲のよいご両親がいて、尊敬できるお姉様がいて……トラキチさんも、そのようなご家庭を築きたいのだと、そう思っていました」
カサネさんは僕の望みをよく理解してくれている。
けれど、今はそれが過去形になっている。
「……諦めるのですか?」
知らず、顔が俯く。
全身が絡みつくような重苦しさに飲み込まれ、気を抜けばそのまま地面に飲み込まれてしまうのではないかというような錯覚に陥る。
「新しい家族は、望めませんよ」
それが、現実。
触れることすら出来ないのだから、当然だ。
けれど。
「方法はいくらでもありますよ。たとえば、ほら、養子とか、ペットを飼うとか」
「そのどちらも、あなたとしか触れ合えないのですよ?」
養子を迎えたとして、彼女はその子を抱くことも出来ない。
ペットを飼ったとして、彼女はそのペットに懐かれることは許されない。
「そんな状況を、あなたが見過ごせるのですか?」
きっと出来ない。
なら、僕が選ぶのは――
最初から新しい家族なんか増やさない。
「トラキチさん。あなたが情に深い人であることは重々承知しています。けれど、この先の長い人生をあなたはそれで――」
「いいんですよ、それで!」
揺らぎそうだった。
揺らげば、すぐにも脆く崩れてしまいそうだった。
だから、僕は逃げ出した。
大声を出して、僕なんかよりよっぽど正しいカサネさんの言葉をかき消す。邪魔する。言わせないようにみっともなく喚く。
分かってる。カサネさんが正しいって。
けど……、クレイさんの孤独が理解できてしまうんだから仕方ないじゃないですか……っ!
「つらいんですよ。独りぼっちって、もう、ほんと、どうしようにもないくらいにつらくて、逃げ出したいのに、逃げ出した先でもずっと独りぼっちで…………っ」
止まらない。
まるで、あふれそうになる涙を誤魔化すために、代わりに言葉が流れ出ているようで、感情の流出が止められない。
「放っとけないじゃないですか。クマのぬいぐるみ越しに手をつないだくらいであんなに喜んで、あだ名付けただけであんなに嬉しそうに笑って……そんなっ、そんな些細なことすら出来ずに、ずっと独りで生きてきた人ですよ? 救いがあったっていいじゃないですか」
感情の奔流は言葉だけでは流しきれず、目頭が熱くなる。
「僕、好きですよ。彼女の驚いた時の顔。素直な笑顔も。可愛らしいイタズラ心も」
口角を持ち上げてみるも、声の震えは治まってくれない。
「自惚れてるって思うかもしれないけれど、僕なら……彼女の孤独に共感できる僕なら、きっと彼女を救えます」
アゴを上げて上を見る。
木々の枝に遮られて気が付かなかったけれど、また雪が降り始めていた。
言葉の切れ目で、白い息が震えながら上っていく。
「僕は、もう決めましたから」
何を言われようと、もう……
「確かに、トラキチさんならクレイさんを救えると思います」
カサネさんが僕に同意してくれる。
日本にいた頃から通算百三連敗した僕だけれど、これでようやく……
「けれど、それでは誰がトラキチさんを救ってくれるのですか?」
大きな雪の結晶が、僕の鼻の上に落ちてじわりと溶けて消える。
血液が集まり熱を帯びていた頭が、すっと冷えていく。
「…………え?」
振り返り、目の前の人に問いかける。
あなたは、何を言っているんですか?
「僕を、救う……?」
それはどういう意味なのか。
そう問おうとして、……心臓が凍りついた。
茂みの向こうから、クーちゃんがこちらを見ていた。
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