もう寂しいのは嫌だから -2-

 指を広げてみせると、驚きの表情でこちらを見ていたクーちゃんの眉根が寄っていく。

 悲しそうに。苦しそうに。

「そんなこと、出来るわけないでしょう」と訴えるように。


 けど、そんな感情の揺れ動きは全部見ないフリをして、僕は腕を伸ばして手を掴む。

 クマキチさんの右手を。


「……え?」

「あれ。見てください」


 ちょいちょいと、小さく指を差してクーちゃんの視線を誘導する。

 その先には、仲良く手をつなぐ親子がいた。

 子供を真ん中に、両親が子供の左右の手をそれぞれつないでいる。

 時折、両親が腕を上げて子供が足を宙に浮かせる。その度に、弾けるような笑顔を咲かせている。


 クマキチさんの右手を掴んだまま、僕はクーちゃんを見つめる。

 手をつなぎましょう。僕と、クーちゃんと、クマキチさんの三人で。


 その思いが伝わったのか、クーちゃんが頬を真っ赤に染めてにっこりと笑ってくれた。


「はいっ!」


 本当に、本当に嬉しそうな笑顔だった。

 こんな触れ合いすら望めない生き方を強要されていたんだね。


「クマキチさん。手を離すと迷子になっちゃいますから。しっかり手をつないでいてくださいね」


 母親が子にするように言って、自分の言葉に笑ってしまうクーちゃん。

 その笑顔が、その声が、そしてキラキラ輝くその瞳が、今が楽しくて仕方がないことを明確に物語っている。


 クマキチさんを間に挟んで、並んで歩き出す。

 しばらくすると、クーちゃんがうずうずし始めたので目配せをしてクマキチさんを持ち上げる。


「せ~の、ジャ~ンプ!」

「くすっ、うふふふ!」


 さっきの親子のように、幸せそうに笑う。

 この笑顔を奪っていた残酷な人生を、疎ましく思った。

 こんなに素敵な笑顔を翳らせるなんて、罪深いことだ。


 べったりと腕を組んで通り過ぎていくカップルとすれ違っても、クーちゃんはもう視線を逸らさなかった。

 そんなもの、最初から見えていないかのように。


 そう。

 もう、誰かを羨むことなんかないんだ。

 自分にないものを持つ者に、羨望の眼差しを向ける必要なんかないんだ。


 クーちゃんがよそ見をしたタイミングで、クマキチさんをくいっくいっと引っ張ってみる。

 振動が手に伝わり、はっとこちらに顔を向ける。

 誰にも触れられないクーちゃんには珍しい体験だったのか、驚かされた小動物みたいに目が真ん丸だ。

 けど、それが僕のイタズラだと分かると「くすっ」と吹き出し、すぐに怒ってみせる。怒り顔が下手ですよ。そんなんじゃ、相手を怖がらせるどころか逆にほんわかさせてしまいますって。


「あっ!」


 と、遠くを指さし僕の視線を逸らした後、仕返しとばかりにクマキチさんの腕を引く。

 僕の手にくいっくいっという振動が伝わり、顔を向けると嬉しさが堪え切れないような満面の笑みを向けられていた。


 出来ることなら抱きしめたかった。

 ……出来ないのだけれど。


 自分の隣に誰かがいる。

 誰かの気配を感じる。

 それは、とても幸せなことだ。


 それが、こんな風に「かまって、かまって」って甘えてくれる人なら、なおさら。


 今日も明日も明後日も、ずっとそばにいてくれるという確約が得られるならば、それはどんなに尊いことだろう。

 自分が抱く好意と同じだけの好意を相手も抱いていてくれていると実感できたら、どれほど満たされた気持ちになるだろう。

 大切な人がそばにいてくれる。そんな特別なことを「当たり前だ」と思えること、それを『幸せ』以外の言葉でどう表すことが出来るだろうか。


 僕は、幸せになりたい。

 そして、彼女にも――幸せになってほしい。切実に。


 僕なら、それが可能なんじゃないか?

 僕なら、叶えてあげられるんじゃないか?


「少し、休みましょうか」


 気が付くと、僕たちは公園内の休憩エリアに着いていた。

 木製の丸いテーブルと椅子がいくつも並んでいる。

 少し離れたところに食べ物の屋台が複数軒を並べている。もくもくと煙を上らせている店では、ケバブのような巨大な肉の塊が豪快に焼かれていた。


「そういえば、お昼がまだでしたね」

「トラくん、おなかすきましたか?」

「はい。思い出した途端、ぺこぺこになりました」

「ふふ。実は、わたしもです」


 くすくすと笑い合って、あいたテーブルに陣取る。

 向かい合わせの席に座り、二人の間にクマキチさんを座らせる。

 手が離れる一瞬、名残惜しそうな表情をしていたことを、僕は見逃さなかった。


「そんな顔をしなくても、またあとでつなげばいいですよ」


 そう言うと、クーちゃんの顔がかーっと赤く染まり、クマキチさんを抱き寄せてぎゅっと顔を埋めてしまった。


「もう……トラくんは、ちょっとイジワルです」


 残念だと思ったことを見透かされて照れてしまったようだ。

 そんな素の表情を見せてくれるクーちゃんに、僕は思わず笑い、そしてまた一睨みされてしまったのだった。


 その目が、あっという間に優しい雰囲気を纏う。


「トラくんは、すごいです」


 クマキチさんに口を押しつけたまま、少しくぐもった音声でクーちゃんが言う。


「わたしがずっと欲しくて、一度も手に入れられなかったものを次々プレゼントしてくれました」


 思わず声が出てしまうような驚き。

 おなかが痛くなるくらいの面白さ。

 飛び跳ねたくなるような楽しさ。

 胸がじんわりと温かくなるほどの優しさ。


「誰かと手をつないで公園を歩くなんて……一生出来ないと思ってました」


 間にぬいぐるみがいたとしても。

 思いがけない合図が来る。

 仕掛けたイタズラに反応が来る。

 そんなことが楽しくて仕方ないのだと、クーちゃんは満面の笑みで教えてくれた。


「一生分の幸運を使い切った気分です」

「まだまだですよ」


 こんなものが一生分なわけがない。


「まだまだ、やってないことがたくさんあるでしょう?」

「まだまだ?」

「えぇ。一緒に料理を作るとか」

「わたし、お料理はあんまり得意じゃなくて……」

「それでいいんですよ。その方が、成功した時に嬉しいでしょ?」

「失敗しちゃったら?」

「微妙~ぅな顔で平らげましょう。協力プレイです!」

「くすっ!」


 あははと、口を押さえて肩を揺らす。

 胸に抱かれたクマキチさんがはしゃいでいるように揺れる。


「あと、お芝居を見て同じシーンで泣いちゃったり、知らない道を探検して知ってる通りに出たら『あぁ、ここに繋がってるんだ』って感動したり」


 一緒にやると楽しいことはいくらでもある。

 手もつなげず、抱きしめることも出来ず、泣いている時に髪を撫でることすら出来ないけれど、それでも……


「布団に入って、夜遅くまでおしゃべりをするんです。眠たくなるまでずっとずっとおしゃべりをして、寝ちゃうのがもったいないってあくびを噛み殺して、全然平気なフリして、気が付いたら寝ちゃってて……ふふ。それで、翌朝、ちょっと照れくさそうに『おはよう』って言うんです」


 僕たちに出来ることは多い。

 まだまだたくさんある。

 ありふれた幸せは実現しないかもしれないけれど、それでも手繰り寄せることが出来る幸せはあるはずだ。きっとある。


 僕の心は、もう随分と強固な感じで、決まっていた。


「見たことがない景色を、たくさん見に行きましょうね」


 誰がなんと言おうが構わない。

 僕たちが幸せだと胸を張って言えるなら、それが僕たちの幸せなんだ。


「あ、あのっ!」


 ガタッ! ……と、クーちゃんが椅子を鳴らして立ち上がる。

 クマキチさんを抱きしめる腕に力が入り、顔のほとんどをもこもこの頭に埋めている。


「わたし、飲み物、買ってきます」

「いや、それなら僕が」

「わたしがっ、……あの、トラくんの好きそうなやつ、選びたい、から……」


 声が震えていた。

 顔は隠れて見えないけれど……あぁ、これはしばらくそっとしてあげなきゃいけないな、と思った。


「分かりました。それじゃあ、何を買ってきてくれるのか楽しみに待ってますね」

「見当違いだったら、ごめんなさい」

「そうしたら、今日から好きになりますよ」


 クーちゃんが僕にって、わざわざ選んでくれた飲み物ならね。


 クマキチさんから顔を上げないクーちゃんを心配しつつ、「何かあったらすぐに呼んでください」と約束させて、小走りで駆けていく背中を見送った。


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