呼び起こされる鮮明な記憶 -2-

「ひぁあっ!?」


 突然、後頭部を齧られました。

 驚いて振り返ると、浮遊魚のモナムーちゃんがのんきな顔でぷかぷか浮かんでいました。

 ……初めて、齧られました。


 トラキチさんは何度も齧られていて、その都度困ったような顔をされていましたけれど……こんな気持ちだったのでしょうか。

 確かに、いきなり齧られると驚きます。痛みはまったくないのですが、心臓がどきどきします。


「な、何をするんですか、モナムーちゃん」


 問いかけても、のんきな顔の浮遊魚は何も言わずぷかぷか浮かんでいるだけです。

 むぅ。

 なんという魚なんでしょう。人を食ったような顔をして。可愛げに欠けます。今まではあんなにも愛くるしい瞳をしていたというのに。


「へぇ、ついには君も齧られるようになったのかい、カサネ・エマーソン君」


 この状況を面白がるような、いえ、確実に面白がっていると分かる声音でちびっ娘の所長が私の名を口にしました。

 にやにやと神経を逆撫でするような目でこちらを見てきます。


「さぁ、仕事を片付けてしまいましょう」

「こらこら。上司をあからさまに無視するのはよしたまえ。社内の規律を乱す行為だよ、それは」


 ホップステップと軽い足取りで私のデスクに飛び乗り腰を下ろすちびっ娘。

 他人の机の上に座る行為の方がよっぽど社内の規律を乱すと思いますけれど。


「さぁ、今日の報告を聞こうじゃないか。連続破談記録更新中のカサネ・エマーソン君」

「記録など無意味です」


 我々が目指すのは最高のご成婚。

 たった一人の運命の方と結ばれることこそが重要なのであって、そこに至るまでの道が長かろうと紆余曲折していようと、そんなことは些事なのです。


「お見合い回数の多い少ないでその方の評価が決まるわけではありません。重要なのは最終到達地点です」

「ほほぅ、言うようになったねぇ」


 くつくつと笑い、小さな手で人差し指をピンと立ててみせる。


「では、その最終到達点に至るための価値ある尊い失敗談を聞かせてもらおうか。面白おかしく、美味しいハーブティーでも飲みながらね」

「ご自分でどうぞ」

「君のいれるハーブティーが好きなんだよ。香りがいいからね」

「おだてたところで…………はぁ。仕方ないですね」


 ここでどんなに粘ろうが、所長が自らハーブティーをいれに行くビジョンが見えません。

 ならば、不毛な時間は避けてさっさといれてしまいましょう。

 私も、美味しいハーブティーが飲みたいですし。


 席を立ち、そばに浮遊するモナムーちゃんのこめかみに『ぷすり』とささやかな復讐を遂げ、簡易キッチンへ向かいます。

 突っつかれたモナムーちゃんは、なんだか嬉しそうにふわふわと天井付近へと舞い上がっていきました。


 いつものハーブティーをカップへ注ぐと、ふわっと香りが広がっていきます。

 所長の前にカップを一つ置いて、自分の前にもう一つを置く。

 その後で自分の席へと座り、私はシュガーポットを開けました。

 さて、何色にしましょうか……


「おや? カサネ君はハーブティーに砂糖を入れるのかい?」

「えぇ、そうですよ」


 物珍しそうに見つめる所長。

 気の毒に、あなたはまだ知らないのですね、砂糖入りのハーブティーの甘美で心穏やかになるあの味わいを。


「変わったことする娘だね、君は」

「何をおっしゃいますやら」


 薄ピンクの角砂糖をカップへ放り入れ、さっと溶けていく砂糖を追撃するようにティースプーンでかき回します。

 ピンク色の角砂糖が溶けてなくなっても琥珀色の水面はその色の影響を受けず、ゆらゆら揺らめいています。

 カップを持ち上げて一口含むと、ハーブの透き通るような香りと、暖炉の温もりを想起させるような優しい甘みが口の中いっぱいに広がります。


 こんなに素晴らしい飲み方が変わっているわけがありません。


「これが、ハーブティーの正しい飲み方なんです」


 ほぼ毎日のようにハーブティーを飲んでいる私が言うのですから間違いありません。

 食へのこだわりが薄い所長なのできっと知らないのでしょう。これこそが次世代のスタンダードだということを。

 ふふん。

 私もついに、他人に流行を教える側の人間になったのです。


 なんとも誇らしい気分で心を温める甘いハーブティーを口に含む私を、所長はじっと見上げてきました。

 いつもの人を小馬鹿にするような笑みとは異なる、心底楽しくてたまらないというような、そんな笑顔で。


「君の成長を、私は心から祝福するよ」


 成長……?

 私が時代の最先端に追いついたという件でしょうか?

 それとも……


「ご祝儀代わりに、この次のお見合い相手は私が選出してあげよう。もっとも適した人材をピックアップしてあげるよ」


 自信たっぷりに言って、まだ熱いであろうハーブティーを一気に飲み干す。

 香りや味を堪能する気はさらさらないようで、喉が潤えばそれでいいというような飲みっぷりでした。


 カップを空にすると、所長はぴょこんと椅子から飛び降り、小さな胸を大きく張って、座る私を見上げてきました。


「存分に悩み、迷い、葛藤したまえ。葛藤は、コイを育てるのに欠かせない餌だからね」


 そんな思わせぶりなセリフを残して、調子外れの鼻歌と共に所長はオフィスを出て行きました。

 一体なんなのでしょう、あの人は?

 コイの、餌……?


 見上げると、モナムーちゃんがのんきな顔をして天井付近を漂っていました。

 モナムーちゃんは、浮遊していなければ『コイ』と呼ばれる種類に分類される魚です。


 ……わざと人を悩ませて、その頭を齧らせることでモナムーちゃんを飼育しているのでしょうか、あのちびっ娘所長は?


 本日の報告も聞かないうちに所長室へ戻ってしまった仕事に意欲的ではない所長に、果たして天井付近でふよふよ漂っているモナムーちゃんとどっちがのんきなのだろうか――と、そんなことを考えてしまったのでした。


 やれやれと息を吐き、私は残った仕事を終わらせることにしました。






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