呼び起こされる鮮明な記憶 -1-

 真っ白です。


 いつもは起こった事象やその時の所感、この次に生かせそうな情報などをデータとして蓄積するためにびっしりと書き込まれているはずのノートのページが、真っ白です。


 書かれているのは、たったの数文字。


 一行目には『トラキチさんの服装は、ピクニックにしては少々フォーマル』と書かれています。

 ピクニックなのですから、もう少し軽やかな服装でもよかったと思うのです。ネクタイこそなかったものの、清潔感を最優先としたようなピシッとした服装でした。ですので、もう少しラフな服装が妥当だったのではないかと私は思ったのです…………『ラフな服装』……ふふ、私もいつの間にかオシャレな言葉を使うようになっていますね。『ラフな服装』なんて、オシャレな女子しか使わないような上級者用の言葉です。実際、私も今初めて使いました。

 これでもう、オシャレに無頓着だなどとは言わせません。私はもはや『ラフな格好』を使いこなせる女なのですから。


 そして二行目には、『トラキチさんの可愛さは万人受けする』と書かれています。

 ティアナさんがトラキチさんを見た瞬間、「本当だ! すごく可愛いな!」とおっしゃっていましたし。

 賛同を得られて、私も誉れ高いです。きっとこれから先、より多くの人々がその事実に気が付いていくことでしょう。


 以上です。


 ……内容が薄いです。

 二行。

 二行しか書いていませんでした、私。

 両手でバスケットを持っていたこともあり、ダンジョン内ではメモを取ることが出来ませんでした。

 普段とは違い、ずっと移動していましたし。

 ノートを開けるためにはバスケットを地面に置き両手をあけなければいけません。

 そのためにお二人の歩みを止めるのは申し訳なく、またお見合い中は影に徹するべき相談員の倫理にも反します。


 なので、重要なことは脳内に一時記憶しておくに留め、目的地に着いた後まとめて記述しようと思っていたのです。

 ですが……


「まぁ、今回はいろいろありましたからね」


 まさか、何気なく触れた壁が勢いよく回転するなんて思いもしませんでした。

 まるで壁に引きずり込まれたかのようなあの感覚は、今もはっきりと覚えています。

 あの咽るようなカビ臭さと、纏わりつく粘着物の不快さも。




 そして……




「…………」


 今日は、なんだか少し気温が高い気がします。

 外は肌寒いを通り越し薄着ではつらいくらいでしたので、きっと相談所の暖房が利き過ぎているのでしょう。薪ストーブ、頑張り過ぎです。

 資源や環境のことを考えると、暖房を利かせ過ぎるのもどうかと思います。


 少し、手のひらで頬に風を送ります。

 まったく効果がありません。私の頬は熱を帯びたままです。



『嫌だったら、ごめんなさい!』



 不意に、あの時の言葉が蘇ってきました。鮮明に、トラキチさんの声で。

 きゅ……っと、胸が詰まるような感覚がしました。


 まぁ、なんということはありません。

 逆の立場ならば、きっと私も同じような行動を取ったことでしょう。人命救助です、あれは。

 それを躊躇わず行われたトラキチさんの行動力は賞賛に値します。

 男性は斯くあってほしいものです。


 ただ、あの時は夢中というか必死というか、とにかくいっぱいいっぱいで深くは考えられませんでしたが……、あの一言は必要なかったと思います。

 人命救助なのですから、否も応も、是も非もないのですから。



 トラキチさんは、私が嫌がると思ったのでしょうか?



 助けられることを?

 それとも、触れられることを?


 そんなわけ、ありませんのに……



「人命救助なのですから!」



 ……なんでしょう。

 今、なんとなくそう口にしないととんでもない惨事を招くような予感がしました。

 たとえば、心臓が破裂するとか、吐血するとか。


 それにしても熱いですね。

 薪ストーブの数でも増やしたのでしょうか?

 それにちょっと息苦しくありませんか? 酸素が上手に吸えません。換気が必要だと思います。


 思えば、あの瞬間です。私の脳内に一時記憶していたものが一気に消去されたのは。

 書き出す前にすべて消去されたのですから、ノートに記録が残っていないのは当然といえば当然なのです。


 仕方がないでしょう。

 だって、いきなり、あんなに力強く……


「うぐぅ……」


 謎の声が漏れました。

 胸が詰まって、呼吸がスムーズに行えませんでした。

 なんなのでしょう……なんだか不安になります、この感覚は。そわそわします。


「仕事を、しましょう」


 おそらく、普段行くことのないダンジョンへ行き、普段見舞われることのないハプニングに見舞われ、普段なら絶対にしないような格好をしたせいで神経が昂ぶっているのでしょう。

 普段通りのことをしていれば、そのうち落ち着きます。きっと。



『あんな格好は二度としない』



 気が付くと、ノートの余白に文章を書いていました。

 決意表明のようなものです。

 ……あんな格好は生涯に一度で十分です。記憶の彼方に封印です。


 …………トラキチさんの記憶も、なんとか封印できないものでしょうか?

 あんな格好を見られてしまって……


 あの格好のせいで、普段通りに動けず、トラキチさんのピンチも救えず職務も全うできず……その点は要反省です。猛省しなくては。


 そうです。

 封印の前に整理をしなくてはいけません。

 同じ過ちを繰り返さないように。

 記憶に残っていることだけでもノートにまとめておきましょう。今後に生かせるデータとなるように。


 そうして、私はペンを走らせます。



『男女でダンジョン』



「……ぷっ」


 思わずペン先が震えました。

 なぜでしょう。何度でも面白いです。

 あの瞬間だったかもしれません、脳内の一時記憶が薄れ始めたのは。


 それもこれも、元を正せばトラキチさんのせいです。

 トラキチさんが『布団が吹っ飛んだ』なんて言うからです。


 まったく、トラキチさんは……



『思っていたよりずっと力が強い』



 …………はっ!?

 私は何を書いているのでしょう!?

 こんなものは何のデータにも成り得ません。

『思っていたより』というのが個人により設定値に差異があるため、人によっては『想像通りの力の強さである』と判断される可能性もあるわけで、よってこの客観性に欠ける分析はデータとしては不完全であると証明されます。



 ……消しましょう。


 二重線で文章を消し、それでもなんだか落ち着かなくて、修正液を使用して白く塗りつぶす。

 修正液が乾くのを待つ間、考えるとはなしにあの時の風景が鮮明に蘇ってきました。


 目も開けていられないほど煙った舞い上がる埃の中から引き起こされると、すぐそこにトラキチさんの顔があって――抱きしめられると耳元でトラキチさんの声がして――触れた体が温かくて…………


「……トラキチさん」


 名を呟くと、いろいろなことが思い出されました。

 濃密だった今日という長い一日が、凝縮されて一瞬で脳裏に浮かびました。

 私は、きちんとお礼を述べられていたでしょうか?

 なんだか不十分だったように思えます。命を救っていただいたというのに、……普段では考えられないような格好のせいでろくに会話も出来ずに……あぁ、私はなんて恩知らずで不義理な人間なのでしょう。

 後日改めてお礼の品と共にご挨拶に伺わなければいけませんね、これは。


 さて、どんなものをお贈りするべきでしょうか。

 食べ物がいいでしょうか。

 それとも、お仕事で活用できるようなものが?

 いや、お見合いの席にちょっと身に着けられるアクセサリーのような物の方が……





 ――かぷっ。





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