天職を辞したわけ -1-
「いやぁ、普段着があってよかったよ」
僕たちは今、目的地である大きな泉のほとりに来ている。
思っていた以上に大きなその泉は、もう湖と呼んでもよさそうなほどの大きさで、ダンジョンの中に存在しているとは思えないほどの雄大さを感じさせた。
コウモリに襲われ、隠し扉の向こうで溜まりに溜まったヘドロ級の埃にまみれ、全身隈なく上から下までドロッドロのベッタベタになってしまった僕とカサネさんは、ティアナさんの私服を借りて着用している。
「こんなオシャレ着で家の周りを歩くのは恥ずかしいからね」
肩をすくめて照れ顔を見せる。
曰く、お見合いなのでとびっきり可愛い洋服を用意したのだが、ご近所さんにその姿を見られるのは恥ずかしい、なので集合場所のそばで着替えたのだそうだ。飲食店のトイレを借りて。
……コスプレーヤーみたいな発想ですね。
しかし、そのおかげで助かったというのは本当で、トリモチのようなヘドロまみれになってしまった僕とカサネさんの服は、とても着用に堪えられる状態ではなく、先ほど泉の水で洗濯、現在はティアナさんの持っていたロープにかけて乾燥中だ。
替えの服がなければ、お見合いは中止になっていただろう。
というか、飲むと即死の泉の水で洗った服って、危険じゃないのだろうか? ……うん、考えるのはよそう。
「けど、上下一着ずつしかなくて申し訳ないね」
「い、いえ。貸していただけただけで、感謝しています……」
「あはは……僕もです」
そうは言うものの、カサネさんは恥ずかしそうに俯き、僕たちから遠く離れた岩陰に身を隠している。
出来れば僕もそうしたい。
なぜなら、ティアナさんの持っていた普段着は、Tシャツと短パンだけだったから。
カサネさんがTシャツを借りて、僕は短パンを借りている。……それのみを。
「あ、あの……私のことはお気になさらず、どうぞご歓談ください。さぁ、あちらを向いて」
岩陰に隠れながら、必死に裾を押さえて「こっちを見るなと」訴えかけているカサネさん。
Tシャツ一枚でその下は下着というなんとも危うい状況が恥ずかしくてたまらないのだろう。
せめてもの救いは、ティアナさんとの身長差がかなりあるためにTシャツだけで太ももの中ほどまで隠れるということか。
とはいえ、超ミニのワンピースみたいになっていますけども。普段のカサネさんなら絶対に着ない服装だろう。
「僕、こっち向いてますので、火に当たってください。風邪を引くと困りますし」
「おっ、紳士だねぇトラキチ君は。うんうん、高評価だよ、今のところ」
僕の紳士的な態度にティアナさんはご満悦な様子だ。
だが……
「短パン一丁の紳士なんていませんよ……」
現在の僕の格好は短パン。以上。
上半身は裸で、靴下も履いていない。
腕白坊やもびっくりな薄着だ。
「気にすることはない。『筋肉こそが男の正装だ』と、とある国の騎士様もおっしゃっていたしな」
「どんな国ですか……」
国王様の前に上半身裸で参上したら即投獄されるでしょうに。
そもそも、僕の体には筋肉らしい筋肉なんてほとんどないですし……
「ダンジョンの中では、こういう格好の男はたくさんいる。気にすることはないよ」
励ましてくれているのであろうことは分かるんですが……カテゴリーが違うんです、僕。そういう方たちとは。
「服が乾くまで、ここでのんびりしているといいよ」
そう言って立ち上がり、ティアナさんは僕たちが先ほど歩いてきた通路へと視線を向けた。
何かを睨みつけるように視線が鋭くなり、右手が滑らかな動きで腰へと当てられる。
二度ほど指を動かして、はっとしたような表情を見せる。
「そ、そうだ! お弁当でも食べないかい? そろそろおなかもすいてきた頃合いだしね」
「そう……、ですね」
えへへと笑うティアナさんを見て、ふとこんなことを思った。
さっきのは、腰にぶら下げた武器を確認しようとしたんじゃないだろうか、と。
まるで流れるような無駄のない動きだった。脳と身体が連動し、自然と身体が動いていた、そんな様子だった。
おそらく、トレジャーハンターであったティアナさんは、いつもあんな風に無駄のない動きでダンジョンを攻略していったのだろう。――と、そんな想像をしてしまった。
もしかして……さっき見つけた隠し通路を探索したい……とか?
「私のお弁当は期待してくれていいよ。お料理の師匠に『それがあなたの得意料理だ』と太鼓判をもらった料理なんだ」
「そうなんですか。楽しみです」
「あの、では私はハーブティーをいれ――トラキチさんはこちらを見ないでください」
「はいすみません!」
違うんです!
決して覗き見ようと思ったわけではなく、何かお手伝いができないかと思って……本当なんです!
背を向け、正座をし、膝の上で拳をぎゅっと握る。
見ちゃダメだ見ちゃダメだ見ちゃダメだ……
背後から聞こえてくる陶器がぶつかる音に、水の音に、微かな衣擦れの音に、僕の心臓は早鐘を鳴らす。
考えちゃダメだ考えちゃダメだ考えちゃダメだ……
「トラキチ君、大丈夫かい?」
「へひゃいっ!」
奇妙な声を漏らした僕を、奇妙なものを見るような驚いた目でしばし見つめて、ティアナさんは小さく笑みをこぼした。
「ふふっ。少し、話でもしていようか」
「そ、ですね、……はは」
気を遣われてしまった。
お見合い中に他の女性に気を取られて、意識して、周りのすべてを遮断するような真似をした僕に、ティアナさんは優しい笑みを向けてくれる。
あぁ、僕はなんてダメなヤツなんだろう。
こんなの、ティアナさんに失礼じゃないか。
「すみません。取り乱しました」
「なぁに。今のその真っ赤な顔も可愛いと、私は思うよ」
「可愛いは……やめてください」
「あはは。それは無理というものだよ」
ぽんっと、気楽に肩に置かれたティアナさんの手は、丈夫そうな皮膚に包まれていて少し硬かった。
「ん? あぁ」
視線が向いてしまったせいで、ティアナさんが眉毛を曲げた。
「武骨な手だろう? トラキチ君から見れば、可愛げのない手に見えるんだろうね」
「そんなこと……」
「いいんだよ、自覚はしている。この十年、ダンジョンに潜ってばっかりで女の子らしいことなんて何一つやってこなかったんだ。自分に魅力がないことくらい重々承知だ。でもね――」
ティアナさんは胸を張り、前を見つめて、明朗な口調で言う。
「私は変わるよ。見ていてほしい。きっと、君に似合う素敵な女性になってみせる。このごつい体は、もうどうしようにもないかもしれないけれど……それでも、変わってみせる。君に認めてもらえるような魅力的な女性に」
魅力的な、女性。
女性の、魅力……って、なんだろう。
家事が万能であることだろうか。
思いやりがあることだろうか。
愛くるしい見た目に、流行のファッション、素敵なアクセサリー……そういうの、だろうか。
僕は、女性のどこに惹かれ、どういうところを魅力的だと感じるんだろう……
それはきっと……、そうだな、たとえば――
「この手で、いくつもの困難を乗り越えてきたんですね」
「へ?」
「罠をかいくぐり、仲間を助け、苦難に打ち勝って、目指すお宝を見つけてきたんですね」
「ん……まぁ、ね。それしか能がなかったからね。……へへ。けど、これからは、ちゃんと変わって……」
「もったいないです、そんなの」
「……え?」
「もったいないです」
――そう、たとえばその人の人生が刻み込まれているような、こういう手。
僕は、こういう嘘を吐かない素直な手に、魅力を感じる。
「この手には、ティアナさんのこれまでの人生がぎゅっと詰まってます。誰かが真似して手に入れられるような軽々しいものじゃないです。それをなかったことにしようなんて、もったいないです」
お見合いなので、少しだけ大胆に。
ティアナさんの手を触らせてもらう。
と言っても、肩に乗っていた手をそっと撫でる程度のことだけれど。
指を滑らせると、ざり……っと、乾いた音がした。
「指の付け根のタコはナイフを握っていたからですかね。指先が硬いのは岩場を登るからですか。あ、この傷はもしかしたらアマーシアさんを助けた時のだったりして……」
「……分かる、のか?」
「いえ。全部勘です」
目を丸くして僕を見るティアナさんを見て、少し笑ってしまった。
手品を初めて見た子供のように純粋なキラキラした瞳をしていたから。
ティアナさんの手に、自分の手を重ね、握る。
「ふゎ……っ!?」
ティアナさんがビクッと肩を震わせる。
うっすらと頬に朱が差す。
「ティアナさんの人生が感じられるこの手を、僕は素敵だと思いますよ」
「こ、こんな手が……かい?」
「はい。思わず手をつないでしまうくらいには」
そう言って、つないだ手を持ち上げてみせる。
実はちょっと、いや、かなり恥ずかしくて……僕の頬も赤く染まっていることだろう。
柄にもないことをしている自覚はある。けど……こうすることでティアナさんに伝わるならいいと思った。
あなたの手は、魅力がない手なんかじゃないんだって。
……けど、そろそろ限界だ。
手、離します。
「す、すみません。いきなり……馴れ馴れしく」
「い、いや! そんな! むしろっ、……あり、がと」
照れっ照れに照れた顔を見合わせて「えへへ」と、盛大に照れ笑いを浮かべ合う。
ものすごく引き攣っている。ティアナさんの頬も、きっと僕の口角も。
「ト、トラキチ君は、なぜいまだに結婚していないのか、理解に苦しむね。引く手数多だろうに……理想が、高いのかな」
「そんなことないですよ」
百二連敗中ですから。
全然です。
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