困るはずの困らない申し出 -2-

 午前の日差しは柔らかく街を包み込んでいました。

 しかし、朝の街はとても冷えました。

 鼻の奥にツンとした痛みが走り、体が首周りの冷気を嫌って自然と肩をすくませます。

 吐く息が微かに白く、街を行く人々はみな厚めの上着を羽織っていました。


 私は少々軽装過ぎたようです。


 一度戻ろうか、それともさっさと用事を済ませてしまおうかと頭を悩ませていると、ある商店の前に賑やかなディスプレイを見つけました。

 モンスターのぬいぐるみと笑顔の人々。

 そうでした。もうすぐ仮装祭りが行われるのでした。


 私は、これまで一度も参加したことがないのですが、同僚の女性たちは毎年派手な衣装で夜の大通りを闊歩しているようです。

 この日ばかりは飲食店も深夜から明け方まで営業し、大通りには赤ら顔の仮装者たちがあふれるのだそうです。

 やはり、私には無縁の行事です。私は、お酒を嗜みませんので。あと、夜はしっかりと眠りたいと思っていますので。寝不足は業務に支障をきたしますから。


 特に用事もないそのお店を通り過ぎ、大通りを進みます。

 やはり早急に買い物を済ませてしまいましょう。

 時刻もそろそろ朝食というには遅過ぎる頃合いに差しかかっています。

 起きてからいろいろなことを考え込んでいたせいで、時間を浪費してしまったのでしょう。うかうかしていると昼食の時間になりかねません。


 少し冷えてきた二の腕をさすり足早に大通りを進むと、前方に花屋さんが見えました。

 いいことでもあったのか、一人の男性が嬉しそうな顔で大きな花束抱えて店を後にするところでした。

 あれは、誰かへの贈り物でしょうか……


 少し、鼓動が速くなります。

 少し、……息苦しいです。


 もし、明日の朝……トラキチさんがあんな花束を持って私のもとを訪れたとしたら……


 鼓動がさらに速くなり、酷使された心臓が軋みを上げます。

 なんでしょう、この感情は。

 切なく、苦しい……なのに、どこか…………


「えっ、カサネさん?」

「――っ!?」


 不意に名を呼ばれ、私の心臓は一瞬でドライフルーツのように縮んでしまいました。

 ……少し、痛いです。


 とはいえ、こんなに取り乱した姿を相談者様にはお見せできません。相談員とは、常に冷静で物怖じせず頼れる存在でなければいけないのです。相談者様が安心して自身のご成婚までの道程を任せられるように。

 掻き乱された心を悟られないよう、聞き覚えのある声の主がいる方向へと向き直ります。


「おはようございます、トラキチさん」


 平静を装って、不審に思われないように。

 まして……今まさにあなたのことを考えていたなどとは悟られないように。

 いつも通りの私で話しかけます。


「トラキチさんは、お買い物ですか」

「あっ、いや、おか、おかか、お買い物というか、おつ、つつつ、お遣いといいましょましょましょうきゃ!?」


 ……不審でした。トラキチさんが、ものすごく。

 購入してきたのであろう商品を背中に隠して、視線が仮装祭りではしゃぎ過ぎた酔っぱらいのごとくふらふらと四方八方にさまよっています。


 トラキチさんが出てきたと思しき路地へ視線を向けると、それを遮るようにトラキチさんが私の目の前へと体を滑り込ませてきました。


「違うんです! お見合いがダメだったからってそーゆーお店でそーゆーことをしてきたわけではなく!」

「『そーゆー』……?」


 果たして、『どーゆー』でしょうか?


「えぇっと……まぁ、いかがわしいお店に行っていたことは事実なんですが……」


 いかがわしいお店に行かれていたのですか?

 こんな朝早くから……

 しかし、なぜそれを私に告げるのでしょうか?


「でも、やましいことは何もなかったんです!」


 ものすごい力説です。

 おのれの人生を懸けているかのような力強さです。


「じ、実はですね……」


 そうして、後ろ手に何かを隠しつつ、少し照れたような、それでいて何か決意めいたような表情で、トラキチさんは逸らしていた視線を私へと向けました。



 ……あ。



 これは……この表情は…………


 オルガードさんや、他の相談者の方が私にプロポーズをされる前に見せる、独特の表情に似ています。


 心臓が、静かに加速していきます。

 鼓膜に鼓動が響いてきて、少し、頭に熱がこもっていきます。


 少し怖い。

 今にも逃げ出してしまいたくなる想いに反して、足がまったく動きません。

 視線も逸らせず、私はただ、私を見つめるトラキチさんの真剣な顔を見つめ返していました。


 そして、後ろ手に隠されていた物が私の目の前へと差し出されました。


 花束…………ではなく……紙袋。この中身は、一体……?


「首輪を買ってきたんです!」

「……首輪、ですか?」

「はい! 人間用の首輪です!」


 途端に、全身から力が抜けました。

 へたりこまないように残った力のすべてを両足に注ぎ込み、私はなんとかその場に立ち続けました。


 首輪……?


 それは、やはり……ご自分用、でしょうか?


「動物用の首輪も一応見てみたんですが、革のなめし方がちょっと雑だったり、切り口が鋭かったり、バリが立っていたりして、やっぱりちょっと危ないなって思たんですよ」

「それは……首に着けるには、ですか」

「はい。犬とは違って、人間には毛皮がないですから、直接肌に触れると傷が付いちゃうかなって」


 確かに、首周りの肌は傷付きやすいでしょう。


「それで、人間用の首輪を見に行ったんですけど、どれも……こう、デザインに重きを置いているというか、目的が違うというか……首輪って、もっと純粋に首輪であるべきだと思ったんです! 変な装飾や、ふわふわした毛とかつけないで、ましてドクロのレリーフとかそんなの必要ないんです! シンプルに首輪! どこからどう見ても首輪! 出来れば、そこら辺の犬が着けているような、そんな分かりやすいデザインの首輪が欲しかったんです!」


 まさか、トラキチさんがここまで真剣に首輪の購入を考えておられたとは……

 そしてまさか……トラキチさん自身も、ご自分の特性を――首輪がきっとよく似合うという特性を理解されていたとは。驚きです。


 先ほどまでとは少し違う、楽し気なリズムで鼓動が跳ね始めます。


「それで……見つかったのですか?」

「はい! 六軒もはしごしてようやく! デザインも、品質も問題なく、価格もリーズナブルでいい物が見つかったんです! あ、見てくれますか? 今出しますね」


 そう言って、紙袋から真っ赤なレザーの首輪を取り出し、私の前へと差し出されました。

 にこにこと、嬉しそうに。


「きっと似合うと思うんですよね、僕」


 えぇ。おそらくとても似合うでしょう。

 トラキチさんには、赤い色が似合うのではないかと、密かに思っていましたから。


 手に取り、少し見せてもらいます。

 内側のつくりが丁寧で、これであれば首周りの敏感な肌に傷を付けることはないでしょう。

 そして、太さ調整の穴のピッチが細かく、大人から子供まで、誰にだって装着可能でしょう。

 もし、いつかトラキチさんがご成婚されてお子さんが生まれたら……受け継がれるといいと思います。きっとトラキチさんに似て、首輪がよく似合うでしょうから。


「いい品だと思います。いい買い物をされましたね」

「本当ですか!? カサネさんにそう言ってもらえると嬉しいなぁ」


 満たされた表情をされています。

 ちょっと試しに首輪を着けて、そのまま連れ帰ってしまいたくなりました。

 私の全身から力が抜けていなければ、きっとそうしていたことでしょう。危なかったです。

 相談員が相談者様を拉致するなど、あってはいけないことですから。

 …………保護なら、問題ないのでしょうが。


「あの、保護であれば……」

「それじゃあ僕、帰りますね。試しに着けてみて、サイズの確認をしないと」


 首輪を紙袋にしまい、トラキチさんが頭を下げました。

 私の声は、聞こえていなかったようです。


「カサネさん。そろそろ寒くなるそうですから、もっと温かい上着を着た方がいいですよ」


 そんな言葉を残し、駆け足で帰っていかれました。

 一人になり、不意に寒さを思い出しました。


「……寒い、ですね」


 肩をすくめ、二の腕をさすり、残り少ない体力で目当てのお店を目指します。


 あの首輪、次のお見合いの席に着けてきてくれはしないでしょうか?

 いえ、おそらく仮装祭りで使用されるのでしょう。その可能性の方が高いです。


 通りを歩くと、そこかしこの店舗に仮装祭り用のディスプレイが施されていました。


 今年は、初めて参加してみましょうか?

 ……いえ。大勢の人でごった返すこの大通りの中で、ただ一人の人を見つけ出す自信がありません。

 何より、私自身、何の仮装をすればいいのか見当もつきません。


「……惜しいです」


 もし、私とトラキチさんがもっと気軽な間柄であったならば……たとえば、「仮装祭りに一緒に出掛けませんか」とお誘いできるような関係であったならば、トラキチさんの首輪姿を拝見できたでしょうに……悔やまれます。


「今日の朝食は、ホットドッグにしましょう」


 体感温度が下がった気がして、私は小走りでお店へと向かいました。

 早く買い物を済ませて、早く部屋に戻りましょう。


 そして、温かくて甘いハーブティーを堪能しましょう。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る